武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」1. 豊倉惣菜店
「米、炊くか」
あんなに面倒だと思っていたが、いざ炊飯器を段ボール箱から取り出して見ると、急激に米が食べたくなって、雄士は流し台の下から5キロの米袋を取りだした。母が引っ越しの片付け後、富山に戻ってから改めて送ってくれた箱の中には米の他に計量カップと祖母が作った海苔の佃煮の瓶、胡桃のイチオシだという餃子の酢コショウ味のふりかけなどが入っていた。
「料理なんてまともにしたことないのに、お兄ちゃんご飯なんか炊けるの?」
胡桃の馬鹿にしたような言い方が耳に甦る。
「研いでスイッチ入れりゃいいだけだろ」
研ぐ、というのはつまりまぁ洗うってことだよ。見つけ出した炊飯器から内釜を取り出し、計量カップぎりぎりまで詰めた米をざっと一気に内釜の中に落とす。
「これで一合? 一合って結局どのくらいなんだ?」
炊き上がりの量がまったく想像できないけれど、とりあえず炊きたてを食べて余った分は冷凍してみればいいだろう。流し台横の引き出しを開けると、母が置いていってくれたラップとアルミホイルが、輪ゴムや割り箸、小さく三角形に畳まれたポリ袋などと一緒に並んでいた。余ったご飯はラップでくるんでポリ袋に入れて冷凍庫にしまえば良さそうだ。ほっとして蛇口をひねり、内釜に水を入れる。なんとなく記憶によればこんな感じだ。ざっざっと二、三度強く水の中で米をかき回すようにしてみた。それをくり返して二度三度と水を替えてみても水は白濁したままである。米の研ぎ方を検索すればすぐに答えも出るだろうけれど、今、この濡れた手をわざわざ拭いて、置きっぱなしのバッグの中からスマホを取りだして調べるのも母に電話して聞いてみるのも億劫だった。
「いいや、いけるだろ」
水を切り、内釜を炊飯器の中に戻して一合の線のところまでペットボトルのミネラルウォーターを注いでから蓋をしめた。これって水道水でもいいんじゃないか? 炊飯器に並んだボタンをじっと見る。無洗米や白米急速、おかゆ、おこわなんてボタンまである。雄士は、恐る恐る一番目立っているオレンジ色の「炊飯」ボタンを押した。さて、これは何分で炊き上がるんだろう。
待つ間に買い物に行ってみようかな、と思いついた。最寄り駅から雄士のアパートまでは、途中にコンビニと焼き肉専門のファミリーレストランが一軒ずつあるだけで、あとはずっと住宅街だ。けれど、雄士のアパートを越えて、通りを左に曲がり少し進むとその先に突如古い商店街が現れる。なかなか大きな商店街のようで天井は丸いアーケードになっていて、この間一度だけ歩いてちらりと見た感じでは、野菜も肉も魚もなんでもあるようだった。
「なんかおかずが売ってるかも」
雄士は立ち上がり、財布とスマホをポケットに入れた。せっかく自分でお米を炊いてみたのだから、何か美味しいものと一緒に食べたい。
窓の外で五時のチャイムが鳴る音がする。
「マツセン、まじで没収したゲーム返してくれねーらしいって」
「はー! そんなの許されねーだろ!」
雄士の住む普段は静かなアパートの前を、塾に向かうのか、ランドセルとは別の薄べったい紺色のバッグを背負った二人が、喋りながら早足で通り過ぎて行った。
「それは許されねーよなぁ」
小声で雄士も言い、からからと窓を閉める。
「男だからって甘く見ないで、窓開けっぱなしで出かけたり寝ちゃったりしないのよ」
母の声が聞こえた気がして、首をすくめて鍵をかけた。アパートを出ると、いくつもの家のお風呂と夕ご飯の匂いが風にのって流れてきて、そのどれもが懐かしく、けれどそのどれひとつ自分のものではないことがもどかしい。雄士も少し早足になった。柴犬を連れた女の子が一人、少し前を歩いて行く。
商店街まで歩いていくと、アーケードの手前に居酒屋があった。開店前らしく、まだ灯りがついていない。「バイト募集中」という貼り紙をちらりと見た。賄いがあるなら、一食が浮くから居酒屋でバイトするというのもありかもしれない。でも家からバイト先が近すぎるというのはどうなんだろう。休みの日に突然呼び出されたり、もしも何かトラブルがあって辞めた後、近所を歩きにくくなったりはしないだろうか。採用されてもいないのにあれこれ考えてしまうのもどうやら母親似だということに思い至って苦笑いをし、雄士はようやく商店街に入っていった。アーケードの中は、買い物客たちで溢れている。駅の方にけっこう立派なスーパーもあるのに、古そうな商店街がこんなに賑わっているというのは、よくわからないが地域としては多分いいことなのだろう。数人の高校生たちとすれ違う。スマホとアメリカンドッグを器用に両手に持って彼らは楽しそうに笑っていた。青果店が通りの右にも左にも向かい合うようにして両側にずらりと数軒続いているのはどうしてなのだろう。その隣の鮮魚店は店の奥がやけに薄暗い。何か食材を買って帰り、調理するというのはさすがに今日は無理だろう。キムチ専門店の前を通り過ぎながら、雄士は思った。ここに通うようになれば、いつか自分も料理ができるようになるだろうか。隣の精肉店には、豚の頭がショーケースの目立つところにどんと一つ置いてある。あれはどうやって食べるんだろう。
歩いて行くと、細い脇道の手前に一軒の古い惣菜店らしき店があった。看板を見上げても文字が擦れて何と書いてあるのか判然としない。ガラスケースにはもう何も残っておらず、手前に置かれた長机の上にメンチカツ、チキンカツとポテトサラダの他に三つ入りの煮玉子が一パックだけ残っていた。
「お安くしますよ」
ガラスケースの奥の調理場から声がした。真っ白な蛍光灯がぱつんと小さな音を立て、小柄な老女が腰かけていた椅子から立ち上がるのが見えた。
「いらっしゃい」
商店街についていきなりの買い物に少し迷ったけれど、ものは試しだ。
「メンチカツと煮玉子を下さい」
「あら、学生さん? メンチカツはタイムセールで百円。煮玉子はサービスにしときましょ」
彼女の言葉に、はい、と答え、それから思わずえっと顔を上げる。
「卵、三個も入ってるのにサービスでいいんですか」
ふふ、と笑うと煮玉子の入ったパックを持ち上げて見せた。
「これね、あたしんとこの高校生の孫が手伝ってくれたの。食べものがだーいすきな子でそれはいいんだけど、ちょっと不器用でね。殻があまり上手に剝けてないでしょ」
確かに、白身の表面がところどころぼこりと欠けていたりヒビが入った部分に沿ってタレがそこだけ濃く染みこんでいたりする。三個ともだ。
「でも味は格別だから」
「ありがとうございます」
雄士がお辞儀をすると、老女は、タレがこぼれちゃうからまっすぐ持ってね、と続け、袋を二重にしてパックに輪ゴムをかけてくれた。動きのゆっくりしているところが、祖母と少し似ている。
「僕、この近くに引っ越してきたばかりなんです」
「あら。じゃ、この煮玉子、引っ越し祝いだわね。あたしはね、豊倉よね。看板の字は消えちゃってるけどうちは豊倉惣菜店ていうの。この商店街、なんでもあるからまたいらっしゃい」
そう言って、よねさんはかっかっと笑った。百円玉を一枚渡してガラスケース越しに受け取ったメンチカツと煮玉子はまだほんのりと温かかった。
帰宅してスニーカーを脱ぐのももどかしく、雄士はまず炊飯器の様子を見に行った。狭い台所スペースに米の炊けた甘い匂いが湯気とともに漂っている。
「いいかもいいかも」
すでに保温マークがついていることを確認して、恐る恐る炊飯器の蓋を開けた。つやつやと光る真っ白な米が、たちのぼる湯気の向こうに現れる。
「これはうまくいったんじゃね?」
猛烈に空腹を感じて、雄士は慌てて手を洗い、袋からメンチカツと煮玉子のパックを取りだした。よねさんに言われたとおり、気をつけて運んできたので煮玉子のタレはほとんどこぼれていない。引っ越してきてすぐに駅の百円ショップで買ったご飯茶碗に炊きたての米をたっぷりとよそい、その上にメンチカツと煮玉子を載せてテーブルに運んだ。
「いただきます」
一人で言うのは馬鹿らしいような気もしたけれど、これは長年の習慣だ。ぱちんと手を合わせ、すぐにメンチカツとご飯を頰張る。
「うん、うまい」
衣は冷めてもさくさくしていて、たっぷりのひき肉の他に擦りおろしたにんじんが入っているのか玉ねぎとは違う優しい甘みが、まだ残る肉汁とともに口いっぱいにひろがった。うまいうまいと次々飲み込む内にあっという間にメンチカツも米も食べ終えてしまい、雄士はお代わりをしようと立ち上がった。もう一度炊飯器の蓋を開けてびっくりである。もうほとんど残っていない。
「米一合って全然足りないな」
余ったら冷凍できるかも、なんてとんでもなかったということがわかり、雄士は、残り少ない炊飯器の中の米をすべてご飯茶碗の煮玉子の横にぎっちりと詰めて、テーブルに戻った。まじまじと見直すと確かに煮玉子は不格好である。けれど一口囓ってみると、その卵は今まで食べたこともない美味しさだった。なんだろうこのタレ。卵の白身はぼこぼこでヒビだらけだがそこに染みこんだタレが絶妙だ。明日、大学から帰ってきたら、夕方もう一度あの商店街に行ってみようと雄士は思った。まずは豊倉惣菜店でよねさんにお礼を言って、煮玉子がとても美味しかったことを話したい。それから、他のお店も見てみよう。ひとつだけ残した煮玉子をタッパーに移し、雄士はふうと一息ついた。
とりあえず明日は、米を二合炊いてみよう。
(次回は11月30日に公開予定です)
1980年神奈川県生まれ。『諸般の事情』『驟雨とビール』などのZINEを発表後、2024年『酒場の君』(書肆侃侃房)で商業出版デビュー。
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