トイアンナの初小説『ハピネスエンディング株式会社』Web限定オリジナルストーリー先行公開!
就活本や恋愛指南書など、マルチに活躍するトイアンナ初の小説となる『ハピネスエンディング株式会社』が4月18日に発売されます。
実親からの体罰、過干渉など、トラウマを抱えて生きる人々の心を解放する、不思議なサービスを提供する葬儀会社でインターンとして働くことになった大学生の智也が見たものとは……?
小説丸でしか読めない、Web限定書き下ろしオリジナルストーリー「はい、ぜんぶ母親のせいなんです」をお楽しみください。
「はい、ぜんぶ母親のせいなんです」
いつまでたっても、返事が思いつかない。それでも既読をつけてしまったからには、何か書かないと。絆はメッセージ画面を開いたことを、いたく後悔した。
「今日も、絆は帰ってきませんでしたね。残念です。絆はお母さんがいないほうがよかったんだね。小さいころはピアノのお稽古も、公文も頑張ってくれたのに。やっぱり、絆が高校に入るまで、パートを始めなければよかった。お母さんが全部悪かったんだと思います。もうこれ以上、つらい目にあう家族を見たくありません」
この女は、子どもを憂鬱にさせる天才だ。絆は狭いワンルームの壁に目を向けた。知らない男の家。何年も喫煙していたからだろう、壁は薄黄色に染まっている。床には落とした重曹の粉が散らばっている。まさか違法な粉か、とぎょっとしている絆を後目に、男は消臭剤だと言った。だからといって、直接撒くズボラさがあってたまるものか。トイレや風呂はもっと悲惨だった。長らく女性を連れ込んだことがないのかもしれない。床をクイックルワイパーで拭いたら、地の色が出てきてうんざりした。二度とこの家には泊まりたくない。テーブルの上に鍵がある。男が合鍵を置いて出ていったらしい。時刻は13時。そうか、普通の人間は働いている時間だ。
ホ別1。つまり、ホテル代金別で1万円しか一晩に払えない男の自宅なんて、まあこんなもんか。それでも今日は、どうしても自宅にいたくない気分で、助けを求めたのだった。パパ活アプリは画面の中も外も、うんざりするほど色あせている。絆は唯一の所持品であるピンクのリュックに手を伸ばし、中身を漁った。ほどなくシャラシャラ、と気持ちのいい音がして、「レタス」の瓶が見つかる。この薬は、粒が小さくて飲みやすい。
大丈夫。私は、眠れるので。
絆は立ち上がり、数歩歩いた。干されたコップは清潔そうだ。よかった。水道の蛇口をひねり、コップへ水を注ぐ。ざらざらと飲み干す錠剤は、まるで胃への洗礼式だった。別にトリップとかしたくないよ。ただ「寝てもいい」って言われたいだけ。
ベッドに腰掛ける。有効成分が血に溶け始めると、指先の温度が下がっていく。血管へ直接メントールを塗ったような心地よさ。もっと体には冷えてほしい。自分と世界の境界が曖昧になってほしい。そうすればクソみたいな他人に、傷つけられることもない。先程まで汚いと軽蔑していた男の部屋の、これまた皺くちゃになったシーツの上に、絆はゆっくりと横たわった。
ああ、
「幸せ」
やっと、眠れる。
***
「来ませんね」
智也はそわそわしていた。面談予約は17時のはずだが、すでに半刻は過ぎている。まだインターン先である、「まだ生きている親の葬儀」をする会社に入ってから1ヶ月。比較的真面目な顧客と対面してきた智也には、初のトラブルだった。
「そういうお客さん、多いよ。慣れだよ、慣れ」
ベテラン社員の山岸さんは、ゆったりとした動作でペットボトルの緑茶を直飲みして、机に戻した。
「でも、道中で何かあったら」
「そんな、子ども相手じゃあるまいし。ほら、うちのお客様って、親が生きているのに、親を弔いたいって、模擬葬儀を依頼してくるような方々よ」
山岸さんは、のんびりと智也を諭す。そうだった。智也も最初はぎょっとしたのだ。生きている人間の葬儀をわざわざやって、恨みごとを言いたい顧客がいる事実に。
「そりゃあ、メンタルや体調のひとつやふたつ、崩した人が多いって。いざ葬儀の準備をしたら怖くなって、やっぱりやめます、ってキャンセルも多いし。でもそれも含めてお客様の決めることだからさ。心配してたら、キリないよ」
この山岸さんが動じたところを、智也はまだ見たことがない。それに比べて智也ときたら、模擬葬儀に立ち会うたび、ビクビクしていた。自分が少しでもヘマをして、段取りが崩れたらどうしよう。今だって、本当は自分が面談時間を勘違いしていないか、何度もカレンダーを確認している。手持ち無沙汰なあまりスマホで意味もなくニュースを見ようとして、いや、まだ入社して間もないインターン先でサボるのも始末が悪いと、今日の面談相手が送ってきたお問い合わせフォームに目を戻した。
吉沢、絆さん。25歳女性。
フォームの「模擬葬儀を見つけたきっかけは?」の項目には、「親 殺し方」で検索したと、物騒な動機が書かれている。どんな事情であれ、親を憎んでいることは確定しているわけだ。そうでもなければ、フルセットで最低価格30万円オーバーの模擬葬儀に、依頼するわけもないか。で、当日連絡もなく遅刻しちゃうくらい、メンタルがよろしくない感じ。
「ヤバい、お客様なんでしょうか」
智也は思ったことを、そのまま口から漏らした。
「ヤバい、の定義によるかなあ。ま、精神科のお薬くらいは飲んでいるかもね。でも、親を殺しちゃう前に模擬葬儀をやることで、親と決別しようと思えるくらいには理性的とも言えるし。殺し方を検索するくらい親を憎んでいるのに、憎しみを手放そうと努力できるって、すごいことだよ」
そういうものだろうか。智也はぼんやり考えた。そういえば、人に対して「嫌い」を超える感情を抱いたことがないな。だから強い感情を持つ人だと知っただけで「ヤバい」と処理してしまったのかも。人を憎むほどの感情って、どこから生まれてくるんだろうか。智也にはピンとこなかった。憎しみやら愛だとか、そこまで強烈な感情に焦がされる経験が、自分には不足しているのかもしれない。
唐突に、会議室の扉が空いた。まるで、爪楊枝が歩いているみたいだった。智也がそう連想してしまうくらいには不健康な体躯の女性が、浮ついた足取りでやってきた。目の焦点は合っているが、とにかく怠そうだ。オーバーサイズのスウェットが彼女の体に重くのしかかり、スウェットに食われた犠牲者に見える。重いトップスと対照的にむき出しの細い脚がぐるぐると半円を描きながら、こちらへ近づいてきた。リュックから、ガラスに中身がぶつかる、シャカシャカ音がする。何の瓶詰めだろう。
「あの。予約した吉沢絆です」
遅刻したの、謝らないんだ。智也のかすかな不快感を無視するかのように、山岸さんが立ち上がって挨拶する。
「吉沢様、先日はお問い合わせありがとうございました。まずはこちらにおかけください」
山岸さんが智也に目配せする。そうだ、ドリンクを出すんだった。智也はあわてて、ゲスト用のペットボトルを引っ張り出した。
***
で。面談があった日からいろいろ考えてはみたものの、この1週間、特に深い洞察が得られるわけでもなかった。智也はゆっくりと起き上がる。カーテンを開いていない自室は、なんだか埃っぽい。気持ちばかりジメジメして、どうしようもないな。このインターンで働くと決めたのは、1ヶ月前の自分なのに。
よし、と自分に声をかけて立ち上がる。母親に頼んで、ワイシャツへアイロンはかけてもらった。葬儀だから、ネクタイは黒でよし。革靴は入学式で使ったものが、そのまま使えている。あとは気持ちの問題だけだ。智也は髭を剃るために、洗面台へ向かう。形からでもいい、準備をすれば心のスイッチは入る。部活の試合でもそうやって、コンディションを整えてきた。だから今回も、きっといける。模擬葬儀は夜の7時から。午前の授業を受けるうちに、メンタルは落ち着くだろう。
『ハピネスエンディング株式会社』
トイアンナ
トイアンナ
1987年生まれ。慶應義塾大学卒業後、外資メーカーで勤務し、文筆業にて独立。エッセイからノウハウ本、小説まで幅広く執筆している。書籍に『モテたいわけではないのだが ガツガツしない男子のための恋愛入門』『改訂版 確実内定 就職活動が面白いほどうまくいく』など。Twitter @10anj10