手嶋龍一著『鳴かずのカッコウ』巻末解説全文を無料公開!

 このたび文庫化された『鳴かずのカッコウ』は、元NHKワシントン支局長の手嶋龍一氏が放つ3作目のインテリジェンス小説である。公安調査庁という実在の情報組織を題材とするが、北朝鮮の拉致問題や9.11テロといった重大事案を描いた従来の作品と比して、本作のタッチはカジュアルですらある。
 しかし、騙されてはいけない。著者・手嶋龍一氏をNHK時代から知るジャーナリスト・後藤謙次氏は、これは「日本社会に対する警告の書」とまで言い切る。一体どういうことか。後藤氏による巻末解説を特別に公開する。



 解 説

 二〇二三年一〇月七日、イスラエルから衝撃的なニュースが届いた。パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに向けて三〇〇〇発以上のロケット弾を発射し、イスラエルに多数の死傷者が出たというものだった。イスラエル軍は直ちにガザの空爆に踏み切り、ネタニヤフ首相は声明を発表した。
「我々は戦争状態にある。敵はかつてない代償を払うだろう」
 以来、多数の子供を含む一般市民が暮らすガザにイスラエル軍の容赦のない空爆が続いた。一万人を超える死者を出し、なお犠牲は増え続ける。

 ハマスによるイスラエル攻撃はもう一つの衝撃を国際社会に与えた。世界屈指の情報機関であるイスラエルのモサドがハマスの攻撃を事前に察知できなかったことだ。イスラエルをヒステリックとも言えるガザへの空爆に駆り立てたのは「モサドの失態」があるようにすら思える。
 イスラエルの建国は一九四八年。周辺は全てアラブ諸国。この歴史的経緯、背景から、イスラエルは周辺国だけでなく世界中の国家存亡に関わる情報を集めなければ国家として生き延びることはできなかった。それがモサドという情報機関を生み、発展させてきたとされる。

 モサドはサイバーなど最新のテクノロジーを駆使した情報収集を展開して国家の危機の芽を摘んできた。ところが、そのモサドがハマスの急襲を察知できずに戦闘を誘発した。モサドのハイテク化が逆に徒となり、危機を呼び込んだ。日本政府関係者も「モサドの極限のハイテク化が盲点になった」と語る。ハマスの徹底したアナログ戦略が、モサドを完全に欺くことに繋がったからだ。
 ガザの北部地域には「メトロ(ガザの地下鉄)」と呼ばれる地下通路が縦横に走り、そこをハマスの戦闘員が行き来したという。戦闘員たちの連絡手段は「手紙や口頭」(日本政府関係者)とされ、ハイテクを無力化した。

 これに対して二〇二二年二月のロシア軍によるウクライナへの侵攻は全く逆の展開から始まった。米国のサイバー軍を中心としたハイテクがロシア軍の動向を丸裸状態にした。日本の茶の間でもテレビを通じてロシア軍の展開を見ることができたほどだ。
 戦力では圧倒的優位に立っていたはずのロシア軍戦車の残骸が放置される結果になった。通信手段に関しても米国のイーロン・マスクがCEO(最高経営責任者)を務める「スペースX」が運用するスターリンク衛星がウクライナで利用され、ロシアは劣勢に回った。その後ロシアが押し戻し、戦況は一進一退の状態にあるが、この二つの戦争(紛争)は国家の存亡に関わる情報をめぐるインテリジェンスがいかに重大な結果をもたらすのかを鮮明に浮かび上がらせた。

 インテリジェンス分野の第一人者として知られる著者はしばしばこう指摘している。
「インテリジェンスとは、動乱の時代を生き抜くため、選りすぐられ、磨き抜かれた情報をいう」
 確かに優れた情報機関を有する国はいずれも国家存亡の危機を絶えず意識せざるを得ない歴史を背負ってきていることが分かる。イスラエルはその典型だが、米ソ冷戦中に分断国家となった中国と台湾、南北朝鮮、旧ソ連の影響下にあった東欧諸国にも記憶の残滓があるように見える。この中にはかつては分断国家だったドイツも含まれる。

 その点では日本は比較のしようがないほどインテリジェンスには無頓着に過ごしてきたが、今や過去の話だ。著者は早くから繰り返し述べている。
「ロシアのウクライナ侵攻を機にパラダイムシフトが生じて、世界の風景が変わりつつある」
 指摘の通り世界はかつて経験したことがない地殻変動に直面していると言っていいだろう。日本周辺でも中国公船の領海侵犯は恒常化し、北朝鮮の核・ミサイルの脅威は止むことがない。台湾有事に関するニュースが日常的に報じられる。その地殻変動が日本国民のインテリジェンスに対する意識をも徐々に変えているのではないか。政府関係者も「突然、世界情勢がリアルになった」と語る。

 二〇二三年七月からTBSテレビが放送した連続ドラマの「VIVANT」が高い視聴率を獲得した。ドラマに登場するのは陸上自衛隊に存在するとされる秘密情報部隊「別班」。ドラマでは海外での諜報活動も担い、米中央情報局(CIA)を想起させた。日本の法制下ではあり得ない場面も登場するが、ドラマの高視聴率はインテリジェンスをめぐる国民の関心の高さの反映かもしれない。
「別班」が自衛隊であるのに対して本書『鳴かずのカッコウ』の主人公は公安調査庁の若き調査官だ。通称「公調」と呼ばれる公安調査庁は、破壊活動防止法や団体規制法に基づいて調査対象組織の監視を続ける日本の情報機関の一つ。日本のインテリジェンス情報の収集は内閣情報調査室(内調)や警視庁公安部など人事を含めて警察庁主導だが、公調は法務省の外局として活動する。このため旧オウム真理教事件で一時的にクローズアップされたが、普段は目立つことはなく、あくまでも黒子に徹して、実際の活動はベールに包まれている。

 ただし、任務の目的は明確だ。日本社会や日本国民の安危に関わる情報を集めて分析することだ。かつて政権中枢で危機管理を担当した元政府高官によると、日本政府にとって必要なインテリジェンス情報とは①周辺国(中国、ロシア、北朝鮮)の動向②周辺国の諜報員の動向③国際テロリストの動向──に集約されるという。
 しかし、公調には警察庁のサイバー特別捜査隊や自衛隊のサイバー防衛隊のような組織があるわけではない。あくまでも基本は人間を介した情報収集だ。「ヒューミント」と呼ばれる。重要な情報に接触できる人物を協力者として獲得することで情報を入手する手法だ。ハマスによるイスラエル急襲は改めてヒューミントの価値を再認識させたと言っていい。

 無論、「協力者」は一朝一夕に現れるはずはない。派手なスパイ活動とは無縁の存在だ。
 本書はその地道な活動をリアルに描くことによって知られざる公調の実像に迫る。
「情報源と接触するに当たって、どのように身分を偽装するか。公安調査官のヒューミント、対人諜報活動の成否はこの一点にかかっている」
 本書のタイトルにも使われている「カッコウ」は他の種類の鳥の巣に卵を産み、孵化させ、雛を育てさせる「托卵」の習性を持つことで知られる。このタイトルにも多くの制約を抱えながらも任務を遂行する公安調査官の一面を伝えようとする著者の意図を感じる。

 著者との初めての出会いは今から約四十年前に遡る。首相官邸記者クラブでNHKと共同通信の政治部記者同士で、ともに時の鈴木善幸首相のいわゆる総理番だった。著者の前任地はNHKの横須賀。通称「番小屋」と呼ばれた小部屋で雑談していた時のことだ。著者がさりげなく漏らしたエピソードが今も忘れられない。
「横須賀ではニュースはなかなか取れない。そこで時間をつくっては東京の六本木に出向いていた」
 理由は米軍横須賀基地に所属する米軍オフィサーが息抜きに訪れる六本木で接触を図るためだったという。著者は後にNHKのワシントン支局長を経て、『ウルトラ・ダラー』『スギハラ・サバイバル』を世に問い、日本のインテリジェンス小説のジャンルに新しい地平を切り拓いた。その原点が横須賀時代にあったように思えてならない。
 当時のメディア内のスタンダードからすると横須賀を離れて米軍を取材する発想は〝規格外〟だった。著者のニュースに向かう姿勢はその後も一貫して変わらず、むしろ俯瞰的な取材は一層磨きがかかってきた印象を受ける。

 本書の主人公である若き調査官の地道な活動は著者自身が歩んできたジャーナリスト人生そのものにも見えてくる。日々の取材の積み重ねによって世界の大きな構図、見えない流れを読み解こうとする強い意志を感じるからだ。
 著者の頭の中には地球儀がすっぽりと収まっているのだろう。ただし、それは単なる国境線が引かれただけの単純な地球儀ではない。目には見えない国境を越えて蠢き続ける国際社会の鼓動が刻み込まれている特別な地球儀だ。本書は著者が描く近未来の国際社会に於ける日本の立ち位置を示す見取り図と言っていいかもしれない。
 インテリジェンスの重要性はますます強まっている。その直接の担い手である公調も人知れず静かな変質を遂げているようだ。二〇二〇年七月、短いニュースが流れた。中国でスパイ罪に問われ、服役した日本人男性が刑期満了で出所し、帰国したというものだった。記事の中にこんな記述があった。
「日本政府はスパイ行為を否定しているが、中国は男性を公安調査庁の協力者だとみなしている」(共同通信)
 明らかに従来の公調のイメージとは異なる役割が顔をのぞかせた。本書で霞が関の公安調査庁本庁の現場への調査要請を「情報関心」と呼ぶことを初めて知った。国家にとって重要な情報とは何か。もちろん本書は公調の内情を描いた潜入ルポではない。変転する国際情勢とインテリジェンスの世界を知り尽くす著者が公調を取り上げること自体に強いメッセージを感じる。本書が描く若きインテリジェンス・オフィサーの成長と重ねながらインテリジェンスにあまりに無頓着だった日本社会に対する「警告の書」として本書を読むべきだろう。

 後藤謙次(ジャーナリスト

  

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『鳴かずのカッコウ』
手嶋龍一

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