手嶋龍一『武漢コンフィデンシャル』
秘色の物語を紡いで
『武漢コンフィデンシャル』の装丁も鈴木成一デザイン室が手がけてくださった。鈴木さんはいつも決まって「まずゲラを拝読してから――」と言い、作品を読み終わるまで引き受けてくれるのか分からない。著者にとって、この人が最初の関門なのである。
本作は長江流域に広がる要衝、武漢が主な舞台である。近代中国の黎明を告げた辛亥革命はここから鬨(とき)の声をあげた。娼館、戯館を配下に収める無頼の徒、李志傑(り・しけつ)は、国共内戦から中華人民共和国の誕生まで、激動の現代史を長江の畔で駆け抜けていった。
やがて文化大革命の嵐が全土に吹き荒れ、若き日の李志傑が心を通わせた劉少奇の実権派に紅衛兵が牙を剥く。両派の主戦場となったのも武漢であり、1966年7月、毛沢東はこの地に姿を見せて長江を泳ぎ渡り、健在ぶりを誇示して文革派に勝利を引き寄せた。
本書の表紙は、物語の縦糸となる長江を象徴する泥色で染めあげられている。一方で、武漢発の新型コロナウイルスはドラマの横糸となっているのだが、感染爆発の文字が本の帯に躍っているだけでその姿は見えない。
類い稀なクリエーターは、手ごわい読み手でもあり、陰の主役を表紙の裏側にあたる見返しにそっと埋め込んだ。〝遊び〟と呼ばれる左側のページと共に淡い空色を配している。読者はやがてこの〝天青色〟が重い意味を持ってくることに気づくだろう。
イギリス秘密情報部の叛逆児スティーブンは、澄んだスープのなかに沈む碧い麺を前に、香港・湾仔で広州料理店「柳燕」を営む麗人に語りかける。
――「柳燕の麺がこれほど美しい色なのはなぜなのでしょう。天山の湖底に輝く翡翠(ひすい)のごとし。いや、青みを帯びた秘色(ひそく)のようと形容すべきでしょうか」
汝窯(じょよう)の小さな皿は、雨上がりの空にあらわれた青く澄んだ色を思わせて、この物語を貫く通奏低音を奏でていく。中国の至宝と謳われる汝窯の対の器は、数奇な運命に翻弄されながら百年の歳月を経て相まみえる。その全てがブックカバーに鮮やかに投影されている。
手嶋龍一(てしま・りゅういち)
作家・外交ジャーナリスト。NHKワシントン支局長として2001年の9・11テロに遭遇し、11日間の24時間連続中継を担当。独立後に上梓したインテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』がベストセラーに。続編に『スギハラ・サバイバル』、スピンオフ作品に『鳴かずのカッコウ』がある。『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』『ブラック・スワン降臨』などノンフィクション作品も多数発表。
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『武漢コンフィデンシャル』
著/手嶋龍一