辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第35回「つわりなんてないさ、つわりなんて嘘さ」

辻堂ホームズ子育て事件簿
ときに出産そのものよりも、
インフルエンザよりもつらい、
字面すら憎き「つわり」について。

 2024年1月×日

 新年早々、怒りを吐き出すのはみっともない気もするけれど、35回もこのエッセイ連載を続けてきて、世界中のママたちが憎んでいるであろう〝あいつ〟についてほとんど取り上げていないことに、突如気がついた。

 つわり。漢字で書くなら悪阻。字面すら禍々しい、あいつである。

 なぜ題材にすることを思いつかなかったのか、というと、私がつわりを経験しなかったからでも、症状が軽くて無視できるほどだったわけでもなく、エッセイに書けるようになる頃には、喉元過ぎれば熱さ忘るる、の状態だったからだ。

 どういうことかというと。

 妊娠・出産経験のある方(及びそのパートナーの皆様)はとっくにお気づきだろうけれど、つわりというのは、俗にいう「安定期」よりも前、妊娠初期の段階で現れる症状だ。まだまだ流産の危険がある時期のため、妊娠の報告をする相手は配偶者や両親、職場の上長など、通常ごく一部に限られる。つまり、晴れて妊娠の事実を公にできるようになった頃には、つわりの苦しみなど綺麗さっぱり忘れているのである。

 子どもを2人産んだにもかかわらず、エッセイに書くタイミングを逃し続けてきたのはそのせいだ。症状がある間は、黙って耐えるだけ。三半規管が弱り続けている中で、仕事だってなるべくするし、保育園のお迎えにもいつもどおり笑顔で行く。そして限界がきて、ソファに倒れ伏す。そこへ子どもがダイブ! とっさにお腹を守るも、「ママの上に乗らないで」というお願いは1、2歳児には聞き入れてもらえない。仕方なく腰だの背中だの、硬い骨がある部分を生贄として差し出し、子どもにはその上に座ってぴょんぴょん跳びはねていてもらう……。

 惨めである。

 第1子を妊娠する前までは、つわりを舐めてかかっていた。会社に勤めていた20代前半の頃、もうすぐ産休に入るという部署の先輩に、「つわりってどんな感じでしたか?」と尋ねると、「1か月くらい、ずっと乗り物酔いしてる感じ」という答えが返ってきた。

 まだ何も知らなかった私は、「ずっと」というのを言葉どおりに捉えることができなかった。私自身、胃腸は強い体質なのだけれど、乗り物酔いはひどいほうだ。だからこそ信じられなかった。まさかあの不快な状態が、起きているあいだ四六時中続く、というわけではあるまい。意識するとぼんやりと気持ち悪い感じがするとか、たまに調子が悪くなって横になると楽になるとか、きっとその程度のはずだ。周りの先輩ママたちだって、長期にわたって仕事を休んだりはしていないわけだし、日常生活に大きな支障が出るほどではないのだろう。だって、子どもを産むという人間の自然な営みにおいて、神がそんな試練を与えるはずがないよね──。


*辻堂ゆめの本*
\注目の最新刊!/
山ぎは少し明かりて
『山ぎは少し明かりて
小学館
 
\祝・第24回大藪春彦賞受賞/
トリカゴ
『トリカゴ』
東京創元社
 
\第42回吉川英治文学新人賞ノミネート/
十の輪をくぐる
『十の輪をくぐる』
小学館

 『十の輪をくぐる』刊行記念特別対談
荻原 浩 × 辻堂ゆめ
▼好評掲載中▼
 
『十の輪をくぐる』刊行記念対談 辻堂ゆめ × 荻原 浩

\毎月1日更新!/
「辻堂ホームズ子育て事件簿」アーカイヴ

辻堂ゆめ(つじどう・ゆめ)

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。2021年『十の輪をくぐる』で第42回吉川英治文学新人賞候補、2022年『トリカゴ』で第24回大藪春彦賞を受賞した。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『悪女の品格』『僕と彼女の左手』『卒業タイムリミット』『あの日の交換日記』『二重らせんのスイッチ』など多数。最新刊は『山ぎは少し明かりて』。

ニホンゴ「再定義」 第12回「理屈」
椹野道流の英国つれづれ 第23回