ニホンゴ「再定義」 最終回「自己責任論」

ニホンゴ「再定義」最終回

 本連載は、職業はドイツ人ことマライ・メントラインさんが、日常のなかで気になる言葉を収集する新感覚日本語エッセイです。 


名詞「 自己責任論 」

 自己責任ではない。自己責任「論」である。これは21世紀前半の日本社会の空気感の特徴を示す、重要キーワードのひとつといえるだろう。

 いわゆる自己責任論が社会のメイントピックとして躍り出た契機は、日本のジャーナリストや市民活動家が「危険度の高い国」に入国して武装集団に拘束されたのを、公費を投じて解放した事件である。一般的にはこれ以降、「リスク回避の準備が足りなかった可能性のある個人(あるいはグループ)の窮地について、わざわざ税金を使って救済するのは適切か?」という論争が発生し、ずっと継続しているという説明がなされることが多い。そして個人的には、このとき「公費で救出された」人たちに対し展開された(主としてネット民による)バッシングの苛烈さが極めて印象的だ。単に激しかったことがインパクトの核心ではない。「待ってました!」的な、ついに噴き出すきっかけを見つけた蓄積が、マグマのように存在していたっぽい感が重要である。

 何かしらの呪いが、そこにある。それは何か?

 自己責任論が燃え上がった2000年代中盤とはどんな時期であったか。テロによる暴力と不安感が国際的に拡散する傍らで、ネット化が進み初期SNS文化が浸透し、ロスジェネ世代が辛酸をなめ尽くしていたころ、という断面描写が可能だろう。「ロスジェネ」とは世代であるとともに社会的怨念の名称であり、そしてその怨念は当事者世代に留まるものではない。報道やネットを通じて知識を得た他世代が心理的な便乗をみせる。これはある種の免罪符機能を兼ねた「祟り神鎮撫」アクションの一種みたいなものといえようか。元来の当事者的怨念は「自分たちは世代的に確実に貧乏くじを引かされており、そのつらさは中長期的に悪化する」という未来に対する見立てと「自分たちは守られていない」という実感に由来するが、周囲の「サポーター」たちにはそのリアリティが欠けている。ここで埋め合わせとなるのが生贄の調達と処刑であり、公費を贅沢に使ったという文脈で(非権力的な)対象者を糾弾しまくる「自己責任祭り」は、生贄の儀式として機能してきたのではないか。ここでは、リアル糾弾と免罪符買いの文脈が糾合しながら同じ方向に刃を立てている。だからこそ、強力な社会的ムーヴとなりえたように感じられる。

 構造的にこれと類似するドイツの事例として、2015年以降に顕著となった、旧東独エリア在住のドイツ人から広まった反移民・難民ムーヴが挙げられる。それは移民や難民を毛嫌いするというよりも「本来、すでに我々に与えられているべき東西ドイツの経済格差サポートをいろいろ渋って後回しにしながら、なぜ先に難民に巨額の手当てをほどこすのか!」という、政策の不公平さに対する不満からスタートし、当事者たちの叫びに各種右派勢力・反EU勢力が乗じる(というか利用する)ことで拡大・深化・定着したものだ。

 すると広義の「呪い」が元凶なのか? いや、そんな因果文脈だけで収束する話でもないだろう。

萩原ゆか「よう、サボロー」第69回
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