武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」1. 豊倉惣菜店
〜大学生の雄士とごはんの話〜
1. 豊倉惣菜店
「腹、減ったなぁ」
ぼやきながらアパートの階段を昇り、ポケットから鍵を取りだして雄士はドアを開けた。室内には段ボール箱がいくつも積んであり、朝、部屋を出た時とまったく変わらないその様子にげんなりした気持ちでスニーカーを脱ぎ、バッグをどすんと床に置いた。
大学から近すぎる場所に住むと仲間のたまり場になってしまって勉強に身が入らないかもしれないし、かといって離れたところからの電車通学は定期代も馬鹿にならない。大学合格が決まった後、一人暮らしをするアパートがなかなか決まらなかったのは、母親が急にあれこれと口を挟んできたからである。その結果、大学の一つ先の各駅停車しか停まらない駅から徒歩15分の古い木造二階建てアパートに住むことになった。はっきり言ってぼろい。まず三和土が狭いし、上がってすぐ左手にある小さな洗面台は、背の高い雄士には、鏡の位置が微妙に低い。一人暮らし応援フェアと銘打った家電量販店のセールで買った冷蔵庫と電子レンジを入れると廊下兼台所はそれだけでぎゅうぎゅうになり、その奥の六畳の部屋も、実家から持ってきた小さなテーブルと椅子、マットレスを入れるとほぼいっぱいだった。けれど、トイレと風呂場が別々で浴槽が大きいことと、風呂場の壁の上部に小さな窓がついていることが嬉しかった。予算の都合上、洗濯機は購入しなかったが、アパートの近くにコインランドリーがあるので週に一度まとめて洗濯するくらいで十分だろう。
それにしても、と雄士は思う。一人暮らしを始めてたったの二週間、とたんに独り言が増えた。誰が相槌をうってくれるわけでもないのだから、わざわざ声に出す必要もないのになぜ喋ってしまうのだろう。実家にいた頃は、母がテレビを見ながら大笑いして何か言ったり、買い物袋から野菜や肉を取り出しながら「あらやだ。あれ買うの忘れちゃったわ。あれあれ」などと言っているのをうるさく感じたことだってあったのに、すでにそれさえも懐かしい。雄士は小さな洗面台で手を洗い、うがいをした。
「ほらこれ、洗面台に置くコップにちょうどいいじゃない。小さくて」
引っ越しの日に手伝いに来てくれた母が「その他」とサインペンで雑に書かれた段ボール箱の中から取りだしたのは、雄士が幼稚園生の頃から小学校を卒業するまで実家で使っていたプラスチック製の緑色のコップだった。当時大好きで毎週末楽しみにTV番組を見ていた戦隊もののキャラクターがプリントされていたけれど、今はもうほとんど剝げてしまっている。こんなコップを母が今まで捨てずにとっておいたことも引っ越し荷物の中に紛れ込ませていたことも雄士はまったく知らなかった。
「そんなだっさいの勘弁してくれよ」
あからさまに嫌な顔をしてみせた雄士のことなど気にもせず、母はにこにこ笑って立ち上がると、コップを玄関まで持って行き、鏡の前に突き出た小さな台の上に置いた。
「ほら。可愛いじゃないよ」
だったら自分が使えよ、という喉まで出かけた言葉をぐっと飲み込んで、雄士は母の好きにさせることにした。母が帰ったらさっさと捨てて何か新しいものを買えばいい。そう思っていたはずなのに、実際に一人で暮らし始めてみると、その懐かしい緑色の小さなコップは捨てるには忍びなく、かつ狭い洗面台に意外にもしっくりと馴染んでいた。うがいを終え、台に戻したコップははずみでかぷんと鳴った。
「夕飯、どうするかな」
冷蔵庫の中にめぼしいものなど何も入っていないと知っていたけれど、とりあえず開けてみる。一人暮らし用に買った小さめの冷蔵庫は扉を開けると、低くぶうんと音をたてる。 母がタッパーにたっぷり詰めておいてくれた筑前煮もきんぴらごぼうもロールキャベツ(これ、あんたの好きなやつと母は得意げに言った)もとっくに食べ終えてしまった。最後の頼みの綱だった冷凍してもらったコロッケも昨日で食べ終えた。パックのお米をいちいち買うと高いからちゃんと炊きなさい、と炊飯器を持たされたけれど、それはまだ一度も使っていない。というかまだ段ボール箱の中だ。どこだったろう。雄士は、のそのそと廊下を移動し、母の字で「台所用品」と書かれた段ボール箱を探して開けた。
「面倒かもしれないけど、たくさん炊いて冷凍しておけばいつでもチンして食べられるし、お米ならこっちから送ってあげるから」
雄士の実家は富山県にある。全国的に有名な米どころというわけではないけれど、子供の頃から食べてきた地元の白米が雄士はとても好きだった。
「おん」
母の言葉にうん、ともはい、とも答えられず、雄士は曖昧に頷いた。一浪した後、志望していた国立大に無事に入学が決まり、実家を離れて雄士が一人暮らしをすることになった時、家族の中で一番喜んだのは二つ下の妹の胡桃で、一番寂しがったのは祖母だった。
「お兄ちゃん、いなくなったら家が広くなる!」
胡桃は心底嬉しそうにそう叫び、そのあと声色をがらりと変えて聞いてきた。
「でもいいなぁ。東京で一人暮らし。夏休みに遊びに行っていい?」
「雄ちゃん、とにかく体に気いつけられ。悪い人間にもよ」
祖母は、小さな肩を震わせるように雄士の腕を何度もさすり、母は、黙ってそれを見ていた。雄士の家には父親がいない。息子が家を出るというのは、口にはせずとも不安かもしれなかった。
「時々帰ってくるから」
しみの目立つ祖母の手をぽんぽんと叩いて雄士が言うと、母はついと席を立ち、台所に消えた。
「炊飯器、買いに行こう」
しばらくして居間に戻ってきた母は、やけに明るい声でそう言ったのだった。
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