ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#07

ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#07
 文筆家・ワクサカソウヘイさんは衝動を抑えることができない。ヌーと一緒に大移動をしたいし、カバと添い寝だってしたい。どんなに困難でも、彼らに近づき、彼らのことをもっと知りたいと願い続ける。これは、ひとりの「人間」と、あまたの「野生の生き物」たちとの逢瀬の日々を綴ったエッセイ連載です。時には海や砂漠で、また時にはジャングルやサバンナで繰り広げられる、少しストレンジな密会の行方は……?

 その生き物は、いつでも私のすぐそばにいる。というか、体の中に取り憑いている。そして四六時中、私の生活を支配している。
 その怪奇な生き物の正体は、細菌である。
 世界で最も、小さな生命体。いわゆる、微生物。高度の顕微鏡でしか確認できないようなごくごくミクロな存在が、今日も私の腹の中で蠢いている。数にしてざっと一千種類、総数にして約百兆個以上。百兆って。バカが考えた数字じゃないか。桁が怪異じみている。
 それは、地球の人口の一万倍以上である。信じられない話であるが、我々の腸の中では、禍々しいほどの数の生き物の群れが、暗闇をざわざわと身じろぎしながら、ゾンビのように死滅と増殖を繰り返している。何度も何度もリメイクされる、怪奇映画だ。

 いわゆる、腸内細菌。
 私がその謎めいた存在に強く心を惹かれるようになったのは、某大学のバイオ研究に携わる友人から、とある恐ろしい事実を聞かされたことがきっかけだった。
「腸内細菌というのは、人間の気分や性格、つまり精神状態を強く左右すると唱えられていてさ。脳とも相互に影響を与え合っているんじゃないか、とすら考えられてもいるんだよね。『腸脳相関』と呼ばれるその現象は、生物学や精神医学の分野においても、長いこと真面目に研究されているんだ」
 その友人はニヤニヤとした笑みを浮かべながら、こんな話を続けた。
「古くから、『腹が立つ』とか『腹黒い』とか『腹をくくる』とか、精神状態に関係する慣用句は腹で表現されてきたわけだけど、それはただの言葉の遊びではないのかもしれないね」
 なんということだ。
 気分や性格や精神状態というのは、「私」を「私」たらしめている、根源的な要素である。しかし、それらは実は、腸内細菌が司っていたというのだ。
 つまり、私は本当は私ではなく、腸内細菌なのか……?
 そう思った瞬間、ぶるっと身震いがした。ミステリアスが、過ぎる。
 たとえば、私が朝起きて、「なんだか今日は気分が重いな……」と思う時、それは腸の中で細菌たちがバイト初日のような下がったテンションになっているからなのではないか。妙にウィットに富んだ冗談を会話の中で繰り出せている時、それは腸の中で三谷幸喜みたいな細菌が台本を書いているからなのではないか。
 考えれば考えるほど、得体の知れない寒気を感じる。
 私がこれまでの人生の中で、喜びに満ち、怒りを覚え、そして恋をしたのも、すべては腸内細菌の仕業なのか。百兆もの小さな演出家たちが、照明をまわし、効果音を入れていたということなのか。私は、ただの役者に過ぎなかったというのか。
 なんだか、混乱していく。
 私は、映画『エクソシスト』のラストシーンを思い出していた。神父が悪魔に乗り移られ、人格を支配されてしまうという、目を覆いたくなるような、あの場面。あれと同じことが、内臓で起きているのだ。悪魔の正体は、おびただしい数の細菌であったのだ。
 だが、この混乱は、いつの間にか好奇心へと変わっていった。
「私」とは別の「私」が、腹の中に存在している。
 ドッペルゲンガーに会うと死んでしまうというが、しかしその実在を知ってしまった以上、会いたいという気持ちを止めることはできない。
 様々な野生動物に魅了されてきた私はいま、自分の中に潜む小さくも怪奇的な存在に心を奪われている。それは、「私という個人の正体は本当に私なのか」という大きな問いが目の前に突然と現れたからだ。
 私とは、いったい誰なのか。本当の自分とは、どのようなものなのか。
 腸内細菌と会うことで、その答えを知ることができるのではないか。

 だが、どうやったら彼らと会えるのだろう。
 たとえば、なにかしらの手段で腸内細菌をシャーレの上に取り出し、顕微鏡で覗いて、「ああ、これがそうか」と確認しても、それはあまりにも空虚である。本来、目には見えない存在だからこそ、腸内細菌は魔性を持ってこちらを惹きつけているのである。
 つまり、欲しいのは姿かたちではなく、実感だ。
 すぐ近くに腸内細菌たちがいて、そしてその群れが「お前とはつまり、私たちのことなのかもね……」と耳元で囁いてくる。そうした実感が、欲しいのだ。

 ある夜、私は腸内細菌たちのために、饗宴を用意した。
「ホーンテッドマンション」では九九九人の亡霊たちが千人目の仲間を待ち構えながら夜中に宴を繰り広げているわけだが、腸という館の中でひしめき合っている細菌の元に新たな仲間を送り込めば、彼らは狂喜乱舞するのではないか。そして、その恍惚に染まったテンションは、私にも高揚をもたらすのではないか。そうなれば、精神を通じて細菌たちと会ったという実感を、まさに得られたということになる。肝試しならぬ、腸試しだ。
 では、送り込むべき新たな仲間とは何者なのか、といえば、それは発酵食品たちである。発酵食品には、乳酸菌や酢酸菌などといった微生物が豊富に含まれており、それらは腸の中にいる善玉菌を増やす作用を持つという。また納豆菌に至っては胃酸にも耐えられる強い微生物であり、生きたままに腸まで届くことが知られている。
 ヨーグルト、納豆、キムチ、チーズ、ぬか漬け、サワークリーム、塩辛、ザワークラウト、ピクルス、それから日本酒。テーブルの上に並べられた、発酵食品オールスターズ。そして腸内細菌たちは繊維質を好むとも聞いたので、切り干し大根や椎茸の煮物なども用意した。
 なんだろう、皿の数から見れば盛大な晩餐ではあるはずなのだが、どうも愉快な気分にならない品目たちである。ちょっと離れて眺めると、初期のゴッホが描いた静物画みたいな陰鬱なムード。正直なところ、不気味な食卓でしかない。本当にこれらを食べることで、高揚感が得られるのだろうか。
 ともかく、それらをモソモソと口の中に運んでいく。やはり、楽しい気分にはならない。サワークリームと椎茸の相性が、絶妙に微妙である。納豆と日本酒が、舌の上で仲違いをしている。しかし、これは腸内細菌のための食事であるので文句は言わず、静かな宴を続けていく。こんな実験を行っている自分が、なんだかマッドサイエンティストに思えてくる。
 そして、すべてを食べ終えた。
 腹をさすりながら、しばらく変化の様子を窺う。なにも、起きない。壁に掛かっている時計から、秒針を刻む音だけが聞こえる。
 しかし、いまごろ、腸内では微生物たちがフェス状態で「キムチだ! Yeah!」「納豆だ! Yeah!」などと大騒ぎをしているはずである。その熱狂に煽られて、私もどこかのタイミングで突然にハイテンションへと陥り、玄関から飛び出して路上で側転をキメたり、近所の郵便ポストに求婚の土下座をしたり、「エリザベス女王は私のお母さんだ!」と大声で叫んだり、みたいな支離滅裂な行動を展開し始めるおそれがある。
 なんだか怖くなってきたので、急いで布団の中へと潜り込む。
 自分はもしかしたら取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、という不安はやがて毛布の安心感の中に溶けていき、ゆるやかに眠りへと落ちる。
 だが、深夜の二時頃。丑三つ時。
 突然に私は、布団の中で目を覚ました。異変を感じたのである。
 最初は、小さなざわめきだった。腹の奥底で、なにかが動いているような。次第にそれは、ドンドンドン、と壁を叩くような振動へと変わった。まるでポルターガイストである。
 やがて、稲妻のような痛みが胃腸を貫いた。私は飛び起き、布団を蹴り飛ばす。冷や汗が流れ、膝は震え、視界は揺れる。
 トイレまでの数メートルの距離が、幽霊屋敷の回廊のように無限に続いている。そんな感覚に襲われながら、フラフラと歩く。
 その時、私は、目には見えない存在たちの合唱を聴いた。
「我々は百兆、我々は腸内細菌、そして我々は、お前だ」
 私は悟った。これは、細菌たちが起こした怪奇現象である。
 私はいま、完全に彼らに支配されてしまった。自分の意思など、もう残されていない。
 高揚感を得るはずが、なぜバイオハザードに見舞われているのか。
 ああ、なにも考えられない。なにも考えたくはない。

 翌朝、私は虚無感に包まれた状態で布団に横になっていた。腸内細菌が見せたと思われる一夜の悪夢は、なんとか終息していた。
 ぐったりとはしているが、しかし、どこかで満足な心地でもあった。
 思い描いていた形とは違ったけれども、私は昨晩、確かに腸内細菌と出会ったのだ。姿を見たわけでも、彼らと握手をしたわけでもない。ただ、あの暴動とも呼べる現象こそが、彼らの存在を証明していた。いまここにあるのは、腸内細菌が本当に自分を操っていたのだという、紛れもない実感である。

 おそらく、発酵食品を過剰に摂取したことで、腸内フローラのバランスが崩れてしまい、腹痛に襲われたのだろう。私は夜に起こった出来事の理由を、そのように結論づけた。腸内の状態は、自分という存在に、やはり何かしらの作用をもたらすものなのだ。
 しかし、腹痛というのは、よく考えたら体調不良でしかない。発酵食品を大量に食べたことで、気分や性格になにか大きな変調があったのかというと、そこはかなり怪しい。
 やっぱり、腸内細菌は、「私」ではないのではないか。腸内細菌が精神状態に深く関与しているというのは、眉唾物の怪談でしかないのではないか。
 ところが。
 そこからしばらくして、違和感に気づいた。なぜなのかは本当によくわからないのだが、やけに炭酸水が飲みたくなっている自分がいたのである。
 私は普段、炭酸の入っている飲み物を、そこまで好んではいない。積極的に炭酸水を飲むなどは、これまでに一度もしたことがない。
 なのに、なぜかいま、やけに炭酸水が飲みたくなっている。
 とりあえずコンビニに走って、炭酸水を買い、ゴクゴクと喉を鳴らしてそれを飲んだ。シュワシュワとした感覚が、口の中に弾ける。
 それで一旦は落ち着いたが、しばらくすると、また炭酸を摂取したいという欲求が湧いてきた。これはいったい、どういうことなのか。嗜好に、変化が訪れているではないか。
 不思議に思い、理由を調べることにした。図書館で文献に当たってみたり、ネットで検索してみたり。すると、いくつかの情報が浮かび上がってきた。
 まず、炭酸というのは、実は「味」のひとつなのだという。人間が舌の上で感じられる「味」、それは旨味や塩味や甘味などがオーソドックスなものとして有名であるが、炭酸も「味」の隠れた仲間であることが、近年になって判明したらしい。あのシュワシュワとした清涼な感覚は、口の中でしか感じられないものなのだ。
 さらに、約一千種類も存在している腸内細菌のうち、どこかの一群が勢力を強めると、なにかしらの食物の味をむやみに欲してしまうことがある、という説を目にした。つまり、腸内細菌の嗜好が、そのまま「私」の嗜好に作用を与えているのかもしれない、ということである。
 この説をなぞって考えるなら、もしかしたら。
 発酵食品たちを短時間に次々と内臓へ送り込んだことで、私は私自身の腸内細菌の勢力図を変えてしまった。そして、そこで出世に成功したとある細菌の一群が「我々は炭酸の味を求めているぞ!」と声高に宣言をした。そして私は、炭酸水を飲みたくなって、コンビニまで走らされた。
 いや、あくまで自分オリジナルの仮説なので、いくらでも疑うことはできるのだが、しかしいま、普段では考えられないほどに炭酸の味を欲してしまっている。これは疑いようのない事実である。まさか、本当に腸内細菌によって嗜好を変えられたとでもいうのか。

 それからも私は、いくつもの実験を試みた。
 ある時は、毎朝、納豆とヨーグルトだけを食べるという極端な食生活をしばらく続けた。
 すると、なんだか頭の中がクリアになるような感覚が現れ、次いで溌溂とした気分を得ている自分に気がついた。無性に、なにか新しいことを始めたい。なんだ、これは。
 ある時は、繊維質であるバナナを食べてから、その後にキムチやぬか漬けなどを胃袋へと投入するという、トリッキーな食生活をしばらく展開してみた。
 すると、なんだか気分がまどろむような、心地の良い安堵感を得ている自分に気がついた。無性に、布団の上でゴロゴロしたい。なんだ、これは。
 ある時は、乳酸菌飲料を朝昼晩と必ず飲むようにしてみた。
 すると、それが毎日の習慣となって二週間が経った頃、静かな高揚感を得ている自分に気がついた。無性に、誰かと会いたい。なんだ、これは。
 食生活に変化を与えてみると、必ずそこには、ささやかながらも確かな感覚の変容が現れるのである。それは、多様な精神状態との出会いであり、つまり、多様な自分との出会いでもあった。
 自分とは、こんなにも幅と揺らぎのある生き物であったのか。私は実験生活の中で、何度も驚きを味わった。
 それが腸内細菌のなにかしらの性質に由来するものなのかどうかは、結局のところ判明はしなかったが、しかし、彼らは自分のすぐ近くにいるのだという実感は、改めて強まっていくばかりであった。
 私は、そうやって、この世で最も小さい生き物たちとの、サイレントな交流を続けた。

 本当の私というのは、実はいくつも存在しているのではないか。
 それこそ、腸内細菌のように、無数に。
 そんなことを考えるようになった。
 気分というものが私という存在の軸だとしたら、その気分の変わり身の早さはどうだ。軸の不安定なまでのブレ具合はどうだ。
 私は、いくつもの「私」というチャンネルを持っているのだ。
 きっと誰もが覚えがあるに違いない。親と喋っている時、幼馴染と喋っている時、バイト先の同僚と喋っている時、恋心を抱いている相手と喋っている時。その相対する他者ごとに、違うモードの自分が現れているはずだ。違う口調が現れて、違う気分が現れて。
「個」の正体とは、「多様」に他ならない。
 もしかしたら、個性というものは、百兆を超えてモザイク模様で私の中に分布している可能性がある。まるで腸内細菌のように。
 この多様性を認めること。それこそが、私が私を私として認めるということなのではないか。

 腸内細菌の世界を巡っているうち、そのような考えに辿り着いて、私は私の正体を知ったような気になり、興奮を覚えた。そうだ、そうなのだ、これこそが私という存在の正体なのだ。
 いや、この興奮もまた、私ではない私が私の中で私として作り上げたものなのかもしれない。
 またしても混乱していく。
 腸内細菌の囁きに耳を澄ませる日々は、どこまでも落ち着くことなく、超常的で奇妙な事象に溢れていた。

 彼らは、実に怪奇な存在である。
 そして私も、実に怪奇な存在である。

 


ワクサカソウヘイ
文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。

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萩原ゆか「よう、サボロー」第119回
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