ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#04

ワクサカソウヘイ「アリクイと同じアリの夢を見たい」#04
 文筆家・ワクサカソウヘイさんは衝動を抑えることができない。ヌーと一緒に大移動をしたいし、カバと添い寝だってしたい。どんなに困難でも、彼らに近づき、彼らのことをもっと知りたいと願い続ける。これは、ひとりの「人間」と、あまたの「野生の生き物」たちとの逢瀬の日々を綴ったエッセイ連載です。時には海や砂漠で、また時にはジャングルやサバンナで繰り広げられる、少しストレンジな密会の行方は……?

 大人になるということは、つまりイカとの格闘を果たすということである。
 イカを乗り越えてこそ、成熟した大人を名乗れるというものだ。
 いや、なにを言っているのか、と眉をひそめられるかもしれない。
 しかし、これは私にとっての切実な成長譚なのである。

 大人の階段とは通常、
「所有しているビーダマンをすべて弟に譲る」
「コーヒーをブラックで飲む」
「自分で飛行機のチケットを手配する」
「能とかに興味が出る」
「法事の集まりで親戚のおじさんたちと適度にプロ野球の話をする」
というようなプロセスを辿るものだ。そこにイカの入り込む余地などない。
 だが私の大人の階段には、オリジナルの踊り場が設定されていた。
「巨大なイカと格闘をする」
 これはいったい、どういうことなのか。

 話は小学生の頃に遡る。
 昼休み、図書室で開いた、一冊の煤けた児童書。それは冒険活劇を綴った内容で、そこには大海原で航海者たちが巨大な軟体の化け物であるところのクラーケンと格闘している様子が見開きの頁いっぱいに描かれていた。銛を手に勇ましく闘う船乗りたち、それを海へと引きずり込もうとする伝説のモンスター。
 その頁から溢れる熱気に触れた途端、なにかが胸の奥で激しく鳴った。
 それから毎日のように図書室でその本を開いては、ため息を吐いた。そして夜ごとに自分が航海者となり渦巻く海の怪物と闘うところを空想しては、眠りに就いた。
 自分もいつか、冒険をする者になる。そして未知なる存在に挑む。それが将来の夢となるまで、そう時間はかからなかった。
 話はやがて、小学生から中学生の頃へと階段を上る。
 社会科見学で訪れた、科学博物館。そこには様々な生き物の剝製や標本が展示されていた。ティラノサウルスの骨格標本のスケール感に驚きの声を上げ、コアラの剝製の可愛さに目を細めている、級友たち。そんな中、私はひとり、とある展示の前で足を止め、息を吞んでいた。
 それは、ダイオウイカのホルマリン漬けだった。
 小学生の時に絵本で眺めた、クラーケン。それと姿を同じくしたものが、いま目の前に現れている。そうか、あの化け物は、本当に存在していたのか。
 夢中になって、展示パネルにある解説を読む。
「ダイオウイカは世界最大級の無脊椎生物であり、全長十八メートルもの巨体を誇る個体がいるとも言われている」
「動物界において最も巨大な眼球を持つ」
「深海に棲み、時にマッコウクジラと闘うことがある」
「生きた個体の動画撮影にはまだ誰も成功したことがなく、その生態は謎に包まれている」
 ああ、なんて心を惹きつける生き物なのか。
 私は、この化け物との本格的なぶつかり合いを思い描いた。誰も成し遂げたことのないダイオウイカの生態解明を、この手で果たしたい。そんな気持ちが湧き立った。
 将来の夢が冒険者から生物研究者に変わるまで、そう時間はかからなかった。
 そして話は、中学生から高校生の頃へと階段を上る。
 生物研究者になるのだから、なにはともあれ「生物」の授業履修は必須である。私は理系に進むのだと心に決めて、勇んでその教科書を開いた。
 途端、脳内に吹き荒れたのは、砂嵐だ。
 真核細胞? ミトコンドリア? 酵素解離曲線? ゲノム? バイオーム?
 そこには私の頭では到底理解不能な用語の羅列があった。なんとか集中して読み込もうとしても、目がすべりにすべる。おいおい、「生物」の勉強って、こんなにも難解なのか。「袋のなかで子育てをしながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねる動物はなにかな? 答えはカンガルーだよ!」といった感じの教科書を想像していたのに、そのように愉快な記述はどこにもない。
 こうして心をくじかれた私は、生物研究者への道を早々に諦めることになる。
 しかし、ダイオウイカへの想いは枯れることはなかった。研究をすることは難しくても、世界で初めて、生きたダイオウイカの動画撮影を成功させることだったら、研究者でなくても可能なのではないか。そうだ、ダイビングとカメラの技術さえ取得できれば、それを叶えられるチャンスはまだあるはずだ。そっちのアプローチで、ダイオウイカとの格闘を果たそうではないか。
 将来の夢が生物研究者から水中カメラマンに変わるまで、そう時間はかからなかった。
 そして話は、高校生から二十代前半の頃へと階段を上る。
 私はダイビング免許を取得するために、スクールへと通った。座学での講習を受け、それから実習へと進む。ボンベなどの機材を装着し、深いプールへと潜っていく。元々泳ぎは得意だという自負があったので、余裕の心持ちである。
 ところが。
 まだそこまでの深度もないところで、私はパニックを起こしてしまった。周囲がすべて水で覆われているという恐怖が、突然に胸の動悸となって現れたのである。トレーナーが必死でこちらのことを落ち着かせようと送ってくるサインを無視して、急上昇を行う。肺の空気が膨張し破裂してしまうこともある、非常に危険な行為である。
 水面から顔を出し、なんとか呼吸を整える。視界の先に、天井のライトの光がぼんやりと滲み、ああ、いま自分は涙目になっているのだ、とわかった。
 こんなことでは、深海に生息するダイオウイカと格闘することはおろか、すれ違うことだって叶わない。
 将来の夢が水中カメラマンではなくなるまで、そう時間はかからなかった。
 そして話は、二十代前半から二十代後半へと階段を上る。
 突然、NHKでダイオウイカについての特番が放映された。なんと、深海で生きるダイオウイカの姿が、小笠原諸島の沖でついにはっきり撮影されたというのだ。
 固唾を吞んでテレビ画面を見守る。深海の途方もない闇、そこにゆらりと現れたダイオウイカの生体。その存在感は、もはや神話そのものであった。
 ああ、先を越されてしまった。私は落胆した。

 世間一般的に見れば、私はすでに大人の年齢である。しかし私自身は、私自身を大人として認定してはいなかった。それは、階段の先でずっと待ち受けていた「巨大なイカと格闘する」という踊り場を、乗り越えることができていなかったからだ。
 なにも、本当に生身で格闘しなくてもいい。苦心を経て、野生の巨大イカをこの目に映し、「うわあ、超でけえ」という未知の実感を独り占めできれば、格闘は果たされたことになるのだ。それは唯一無二の通過儀礼として、自分の経験に刻まれるのだ。
 しかし、ダイオウイカに対する「うわあ、超でけえ」という実感は、この特番を通じて、未知のものでも、自分だけのものでも、なくなってしまった。たぶんいまごろ、大勢の視聴者たちが同時に「うわあ、超でけえ」とつぶやいていることだろう。
 だとすれば、私はこれからどうやって大人になればいいというのか。夢が破れたような心地で呆然としながら、その特番の様子を眺める。
 すると、気になるものが目に飛び込んできた。
 そのダイオウイカをおびき出すために、使われた餌である。
 それは、ソデイカという、人間の五歳児くらいの体長はありそうなイカであった。そう、巨大なダイオウイカを誘い出すために、別の大きなイカが餌として使われていたのである。ソデイカもまた、普段は海の深いところに生息しているイカであるという。
 なるほど……。なにもダイオウイカにこだわらなくても、モンスター級のイカというのは他にも存在しているのだ。
 そして私は、イカのことを猛然と調べ始めた。
 イカとは、実に怪異的な存在である。青白く発光するものがいて、「ユウレイイカ」の名を持つものがいて、近年は空中を「飛行」するものまで確認されている。
 ということは。この世のどこかには、ダイビング免許を持っていなくても格闘することが可能な、水深のない場所に生息する怪物イカだって、存在しているのではないか。どこだ、私だけの浅瀬のクラーケンは、いったいどこにいるというのか。
 ある日、図鑑の中で、ついに対象を見つけた。
 そのイカの名は、コブシメ。
 熱帯域の海に生息するコブシメは、コウイカ類の最大種であり、体重は十二キロに達することもあるという。怪物と呼ぶにふさわしい巨体である。
 しかし、「体重は十二キロに達することもあるという」という言い回しから察することができるように、十二キロに達しないコブシメもゴロゴロいるらしい。つまり、本当に巨大なコブシメを発見することはなかなかに至難の業で、時期や環境を慎重に選ばなければ邂逅を果たすことはできないのだ。
 普段の生息域は海底であり、その生態には未知の部分がいくつもあるコブシメ。ただし、繁殖期には水深の浅いサンゴ礁地帯を移動するとのことで、そのタイミングであればダイビングではなくシュノーケリングでも探索が可能だと思われる。
 最大種。至難の業。未知。そして、浅瀬。
 これだ。
 小学生の頃に図書室で生まれ、現在にまで重くのしかかる「巨大なイカと格闘をする」というミッション。それを達成するために打ってつけの存在は、巨体のコブシメ以外に考えられない。
 そう確信した私は、小型の水中カメラを手に、沖縄の海へと向かった。

 紺碧の海の中で、コブシメはすぐに見つかった。
 繁殖期、コブシメは卵を産み付けるために、サンゴ礁へとやってくる。だから、海面に浮かびながらゴーグル越しに色彩豊かな迷宮の景色を眺めていれば、ふとした瞬間に彼らは姿を見せてくれる。
 ただ、それは大人の階段を私に上らせてくれるようなものではなかった。
 ちっとも巨体ではないのである。
 現れるのは、スルメイカをひとまわり大きくしたくらいのサイズ感のコブシメばかり。違う、求めているのは、こんな小粒のイカではない。
 しかし、何日も何日も、朝から夕方まで体力の続くかぎり、シュノーケリングで海の中を彷徨ったが、ついぞ「うわあ、超でけえ」となるようなコブシメと出会うことはなかった。
 滞在していた民宿では、毎晩のようにコブシメの刺身が提供された。宿のおかみさんに聞けば、コブシメという生き物自体は沖縄ではそこまで珍しいものではないが、やはり巨大な個体ともなると、地元の人であっても滅多に遭遇することはないという。刺身として出されたコブシメも、小ぶりのものだと説明された。
 コブシメの刺身は、いままで食べてきたどのイカよりも弾力があり、飲み込みづらい。そして私は、「巨大なコブシメと対面することは難しい」という現実も飲み込むことができない。

 大人になるということは、イカの刺身の美味しさを知るということでもある。
 イカの身というのは、本当に飲み込むことが困難だ。
 嚙んでも嚙んでも、果てしなく続く、ねっとり感。なかなかのどを通ろうとしてくれず、そのうちに顎が疲れてくる。
 そして、味も分かりにくい。ピントの定まらないぼんやりとした主張が、着地をしようともせずに漂流するだけ。このままだと舌が寝てしまうぜ、みたいな味である。
 このような「イカの刺身ディス」を展開していると、バカを言うんじゃない、自分はイカの刺身が大好きだ、と反論の声を向ける人が現れる。
 そう、この世には二種類の人間が存在している。
 イカの刺身の美味しさを知っている人間。
 そして私のように、イカの刺身の美味しさがよく分かっていない人間。
 寿司屋のカウンターで、イカの握りを口に運び、笑みを浮かべている人を見かけると、ああ、この人はどこかのタイミングでイカを乗り越えたんだな、大人なんだな、と感心する。
 それから、自分はまだまだ未熟者なんだな、と小さく落ち込んだりもする。

 研究者や水中カメラマンなど、将来の夢を次々に諦めてきた自分ではあるが、ここで巨大コブシメとの遭遇を諦めるわけにはいかない。未知なるイカの醍醐味を知らないままに、踊り場の前でぐずぐずと足を止めているばかりでは、いつまで経っても大人になることはできないのだ。
 次の年も、そしてその次の年も、さらにその次の年も、コブシメの繁殖期である春が訪れるたび、私は沖縄へと向かい、巨大なコブシメの探索を続けた。
 だが、成果はまったく上がらなかった。目の前に現れるコブシメは、どれもが凡庸な寸法のものばかりだ。
 もしかして、巨大なコブシメなんて、そもそも存在してはいないんじゃないか。そのような疑いと、季節外れの日焼けだけをお土産にして、手ぶらで東京へと帰還する。それがコブシメ探索行の常なる結末となっていた。

 そして話は、三十代の最後の歳へと階段を上る。
 もうこれで最後にしよう、という諦念と決心を胸に、私はまた春の沖縄を訪れた。
 これで何回目のアタックだろう、と思いながら、フェリーで離島に向かう。
 いままで年ごとにスポットを変えながら、巨大なコブシメを探してきた。今回向かうのは、人口数が三百人にも満たない小さな島だ。ガイドブックにも大したシュノーケリング情報は載っておらず、正直なところ期待はできなかったが、ここまでしらみつぶしに探索を行ってきた結果、もうこの島くらいしか希望の持てるエリアは残っていなかったのである。
 船着き場から降りて、そのまま近くの浜辺へと移動する。広がったのは、入浴剤を流したように青く染まった海。まあ、沖縄としては当たり前の景色である。私はこれまでに幾度となく、この美しい青色に期待を裏切られてきた。
 やや白けたような気分を携えながら、波打ち際よりエントリーして、サンゴ礁のありそうな方面まで泳いでいく。
 ざぶざぶざぶ、ざぶざぶざぶ、ざぶざぶざぶ。
 ……おいおい。
 ……うそだろ。
 思わず、海中でうめき声を上げてしまった。
 そこには、圧倒的なサンゴ礁の展開があった。なんだ、これは。いままで訪れてきたどの沖縄の海でも、これほど濃密で広大な水中の森は見たことがない。
 多種多様な形のサンゴが、そこでは豊かな生態系をあぶくと共に構築していた。少し目を凝らせば、その隙間にはカラフルな小魚たちがいて、鮮やかな体表のウミヘビがいて、まばたきをするようにその身を動かすシャコガイがいて、眠そうな目を浮かべたウミガメがいる。
 その光景を前にして、言葉を失いながら、私は海面を漂う。時間が経つのも忘れて、ただ、漂い続ける。
 すると、瞬間。
 眼前を、ものすごいスピードで、怪異のような影が横切っていった。
 その大きさと形からして、魚雷でも飛んできたのかと思い、心臓を跳ね上がらせる。
 しかし、違った。
 目を追った先にいたもの。その正体を知った瞬間、のけぞった。
 コブシメだ。
 巨大な、本当に巨大な、コブシメだ。
 スピードを緩め、サンゴ礁の中に卵を忍ばせ始めたその個体は、いままで見てきたコブシメたちとは比較にならないほどの大きさだった。
 水中の生き物をゴーグル越しに眺めると光の屈折によって実際よりも大きく見えてしまうのだが、いや、それにしたってこのコブシメはでかい。下手したら、自分と同じくらいの大きさがあるのでは……? コブシメは最大のもので体長五十センチに達すると図鑑に記載されていたが、明らかに五十センチ以上あるように見えるのだ。もしかして、私はいま、世紀の発見をものにしているのではないか。
 ラグビーボールのような胴体、そして潮の流れを編むように揺れる複数の腕。体表は万華鏡のように色を変え、白くなったと思ったら黒を帯び、気づけばイエローの光沢を放ったりもしている。なんて奇妙な生き物なのか。
 まさに、未知との遭遇だ。
 驚嘆は、やがて興奮へと変わっていく。もっとこのコブシメに近づいて、その大きさの実際のところを知りたい。そうだ、記録撮影もしなくては。慌てて水中カメラを取り出し、それを慣れない手つきで動画モードへと切り替えていると、コブシメは目の前からすっと、少し離れた先のサンゴに移動した。なんだか、こっちの気配に注意を払っているような様子である。
 こうして、巨大イカと私の格闘が始まった。
 静かなバタ足で、その個体へと接近し、その巨大さを明らかなものにしようとする。
 するとコブシメは、音も立てずに、素早く別のサンゴへと泳いでいく。
 ピントが合わず、撮影もままならない。
 近づいては逃げられ、近づいては逃げられ。その繰り返し。
 私は何度も何度も、コブシメに接近戦を挑んだ。日が暮れ始めていたが、それでも、なんとか一撃を放とうと必死になった。
 そして、ついに。
 コブシメは突然、観念したかのように、海中でホバーリングをするようにしながら、その動きをピタッと止めた。私はゆっくりと、それに近づいていった。
 じっとこっちを見つめてくる、怪物の瞳。
 あと数メートルの距離まで接近することに成功し、私は両手でしっかりとカメラを構えた。コブシメは、逃げようとはしない。これってもしかして、私を海底へと引きずり込むための算段を立てているのではないか。いや、向こうは向こうで、狩られるのではないかと警戒しているのか。両者の間に、緊張が走る。
 そして、人差し指で録画ボタンを押し、私はその巨体の記録を開始した。
 十秒、二十秒、三十秒。静寂だけが広がる間合いの中で、私たちはぶつかり合った。
 ああ、撮れた。巨大なイカの姿を、カメラの中に捉えることができた。
 すると緊張の空気感がほどけ、その刹那、コブシメは突然に猛スピードで視界から消え去っていった。

 浜辺へと上がり、興奮を落ち着かせるように息を整えてから、カメラの記録を確認する。
「うわあ、超でけえ」
 私は、ずっと願っていた一言を、小さく漏らす。
 そこに映されたコブシメは、やっぱり想像を超える巨大なものだった。
 世紀の発見とまでは言えないかも知れないが、しかし私の個人史において、揺るぎのない世紀の発見と言えるものだった。
 幼い頃に描いた空想。思いつき。衝動。
 それに決着を付けるということが、大人になるということなんだと思う。
 決着の先で得た未知を独り占めするのは、大人の階段を上った者の特権だ。
 私は夕陽の落ち始めた海岸でひとり、「うわあ、超でけえ」という弾力のある実感を、いつまでも咀嚼しながら味わい、そして最後に飲み込んだ。
 その瞬間、ようやく大人になったような気がしたのであった。

 


ワクサカソウヘイ
文筆家。1983年東京都生まれ。エッセイから小説、ルポ、脚本など、執筆活動は多岐にわたる。著書に『今日もひとり、ディズニーランドで』『夜の墓場で反省会』『男だけど、』『ふざける力』『出セイカツ記』など多数。また制作業や構成作家として多くの舞台やコントライブ、イベントにも携わっている。

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連載第31回 「映像と小説のあいだ」 春日太一
萩原ゆか「よう、サボロー」第106回