関口英子『傷つきやすいものたち』

関口英子『傷つきやすいものたち』

母と娘の物語から透けて見えるイタリアの今


 本書『傷つきやすいものたち』は、イタリアで実際に起こったフェミサイドの事件にインスパイアされて書かれた小説だ。舞台は中部アブルッツォ州の小さな村。「イタリアの背骨」と呼ばれるアペニン山脈の東側の山裾に位置する自然豊かなその一帯には、マイエッラ国立公園をはじめ人気の観光スポットが点在し、夏にはトレッキング客やキャンプ客が訪れる。羊や牛の放牧と観光がおもな産業である静かなその土地で、イタリア全土を震撼させた事件が起こったのは1997年のことだった。現場となった集落には大勢の野次馬やマスコミが押し寄せ、地元の人たちの暮らしは、その日を境に「以前」と「以後」に分かれることになった。

 小説に落とし込むにあたって著者は、直接の被害者でも加害者でもなく、事件を生き延びた被害者の親友を主人公に据えるという選択をした。それにより、フェミサイドそのものではなく、理不尽な暴力がいかに広範囲・長期間にわたって禍根を残すかを炙り出していく。癒されることなく心の底に封じ込められたトラウマは、気づかぬうちに母から娘へと連鎖し、娘の心身にまで負の影響を与えることさえある。

 このように紹介すると、おどろおどろしい物語のように思われるかもしれないが、本書は至って寡黙な小説だ。主人公のルチアも、その娘のアマンダも、互いに似たようなトラウマを抱えているはずなのに、自分の胸の内をほとんど口にしない。ミステリー小説さながらに、現在と過去を行きつ戻りつしながら少しずつ明かされていく断片を手掛かりに、登場人物たちの心の内でわだかまっているものの正体を探っていく過程で、彼女たちの生きづらさだけでなく、その先にあるイタリア社会の今が透けて見えてくる。

 若者が出ていく中山間地域の厳しい現状、担い手のいなくなった産業を支える外国人労働者をとりまく環境、事件現場となった土地につきまとう風評被害、いわゆる「負動産」の相続をめぐる諸問題、引きこもり……日本で暮らす私たちにとっても決して他人事ではない一連のテーマを、母と娘の物語のなかに織り込んでいく著者の手腕には舌を巻くばかりだ。

 主人公のルチアはアラフィフ世代。子どもが大学に通うようになり、長かった子ども中心の生活から解放されたと思いきや、親の老いが気になりはじめ、夫とのあいだにはもはや埋めようもない距離ができてしまっている。漠然とした不安や寂しさを抱えながら日々をやり過ごしている同世代の女性たちはもちろん、ルチアの娘の世代から老父の世代まで、幅広い世代の人たちが自らの思いを投影できる情景を見出すことのできる懐の深い物語だ。

  


関口英子(せきぐち・えいこ)
埼玉県生まれ。イタリア語翻訳家。2014年に『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』で第一回須賀敦子翻訳賞を受賞。主な訳書にG・ロダーリ『猫とともに去りぬ』、D・ブッツァーティ『神を見た犬』、G・マッツァリオール『弟は僕のヒーロー』、P・コニェッティ『帰れない山』、D・スタルノーネ『靴ひも』、D・ディ・ピエトラントニオ『戻ってきた娘』、V・アルドーネ『オリーヴァ・デナーロ』、M・バルツァーノ『この村にとどまる』、M・B・ビアンキ『遺された者たちへ』など。

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傷つきやすいものたち

『傷つきやすいものたち』
著/ドナテッラ・ディ・ピエトラントニオ
訳/関口英子

採れたて本!【歴史・時代小説#39】
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