伊与原 新さん『八月の銀の雪』
研究の世界に生きている人がすごく好きなんです
2010年に『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞して作家デビュー、昨年はノンミステリの短篇集『月まで三キロ』で新田次郎文学賞を受賞した伊与原新さん。新作『八月の銀の雪』は、その流れをくむ短篇集だ。理系の著者ならではの科学的知識を盛り込んだ本作にこめた思いとは?
人生に悩む人々に訪れる出会い
神戸大学を卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻、博士課程修了。その後、富山大学理学部で教えながら研究を続けていたという経歴を持つ伊与原新さん。昨年新田次郎文学賞を受賞した『月まで三キロ』は、人生に行き詰まりを感じる人々が、科学的な知識を持つ人と出会い、心の変化を迎える様子を描いた短篇集だった。ミステリ作家のイメージも強い伊与原さんだが、これはミステリ要素を抑えた作品。
「当時、編集者に〝トリックやどんでん返しにこだわらず、好きなように書いてみたらどうでしょう〟と言われたんです。おそらく僕がちょっと苦しそうだったんでしょうね。それで気を楽にして取り掛かったのが『月まで三キロ』でした。書いたら書いたでめちゃくちゃ大変だったんですけれど(笑)」
新作『八月の銀の雪』は、その系譜となる作品集である。
「『月まで三キロ』がたくさんの人に読んでいただけたので、編集者ともうちょっと書いてみよう、という話になりました。ただ、前作はわりと〝いい話でした〟〝ほっこりしました〟という感想をいただくことが多く、もちろんそれも嬉しかったのですが、自分としてはそこからもう一歩踏み出すことを目指しました」
収録されているのは五篇。主人公たちは年齢も立場も異なるが、自分の居場所を見つけられずにいる人たちだ。
「前作に続き、悩みを抱えて視野が狭まっている人が、それまで縁がなかった科学的な世界に触れた時に何が起こるのか見てみましょう、という話です」
巻頭の表題作はご自身の専門分野の知識が盛り込まれるが、それは後半に明かされる。主人公は大学生の堀川。よく行くコンビニで働くアジア系の外国人留学生、グエンの仕事に不慣れな様子に苛立つ彼だが、自身は就職活動で内定をとれずにいる。そんな中、大学の知人、清田から仮想通貨の売買に誘われて……。
「就活生の話は前から書きたかったんです。就活には現代の歪みが集約されている気がします。コンビニで働く外国人の話も前から書きたかった。外国人の日本語が拙いと幼く感じるけれど、そういう人も自国語でならもっと奥深い話や専門的な議論をするだろうと思っていて。仮想通貨のアフィリエイトについては、仕事をしに行くカフェにそういうお兄さんがいて、彼をイメージして書きました(笑)」
口だけ達者な清田と、日本語は下手だが真面目なグエンが対照的。
「科学をやっている人ってコミュニケーションが下手な人が多いんです。でもめちゃくちゃ優秀だったりする。大学で教えていた時も、最初は地味で無口だった学生が、だんだん自信がついてくるとものすごくいい仕事をする様子を見てきました。そういう子たちがもっとうまくいく社会であってほしいなと思います」
第2話「海へ還る日」は、仕事に追われながら幼い娘を育てるシングルマザーの主人公が、たまたま上野の自然史博物館に勤務する宮下和恵という、七十代くらいの女性と出会う。宮下は博物館の非常勤職員として働くうちに、絵の上手さを見込まれて博物館のクジラなどの生物画を描くようになったという。
「大きな虚無感を抱えて生きている女の人を登場させたいと考えていました。クジラはもともと好きで、資料を集めていたんです。生きる意味を見出せないでいる女性が、ひょんなことからクジラの世界に放り込まれる。そんなイメージでストーリーを練りました」
巻末に、宮下を登場させるきっかけとなった人物がいると記されている。国立科学博物館委託標本作製師の渡辺芳美さんだ。
「何かの記事で渡辺さんのことを知り、こんなすごいプロフェッショナルがいるのかと驚きました。渡辺さんは専門的に学んだことはなく、ほとんど素人の状態から標本づくりを教わり、絵を描くようになった方なんです。今回の主人公は、そうした、働いているうちにたまたま自分の道を見つけた人と出会わせたい、と思いました。目標を持って努力して地位を勝ち取った人と出会っても、この主人公は落ち込むだけですから」
第3話の「アルノーと檸檬」は不動産会社の社員、正樹が主人公。古いアパートに住む老婦人、寿美江に立ち退きを迫る彼だが、寿美江は立ち退きの話の前に、自分の部屋のベランダにやってくる伝書バトの飼い主を探せと言う。しかし、なぜハトはその部屋に来るのか?
「これは謎解き要素のある話ですね。僕は地磁気の研究をしていたのですが、磁場を利用している渡り鳥に興味があって、いつか書きたいなと思っていました。そんな時に、前の担当者が伝書バトの記事を見せてくれて、〝切なくないですか?〟と言うんです。そういえばハトも磁場を使っているなと思い、こうした話になりました」
タイトルの「アルノー」とは、『シートン動物記』に出てくる伝書バトの名前でもある。
「あれは改めて読むと本当に切ない話。伝書バトは自分の鳩舎に戻ってこられないケースもたくさんある。頑張って帰ってくれよと思います」
4話目は「玻璃を拾う」。美しいアクセサリーの写真を見つけSNSに載せた瞳子は、見知らぬ男性からクレームを受ける。どうやら写真を撮影した本人らしい。しかもそれはアクセサリーではなく、ガラスの殻を持つ微生物、珪藻を使ったアート作品だった。
「マニアの人たちは自分の領域について間違ったことを言われたり流用されているとものすごく怒る人が多くて、SNSでよくケンカをしている。僕はそういう人が嫌いじゃないんです。そこまで怒れるというのは、よっぽどその世界が大事なんだろうから」
珪藻アートはネットでも画像が見られるが、これがまた息をのむほど美しい。それが顕微鏡を使わないと見えないほど小さなものだということに驚いてしまう。
「珪藻は前から知っていましたが、それを使ってものすごくきれいな作品を作っている人がいるということは僕もネットで知りました。僕のまわりには微化石など、一般にはその存在すら知られていないものを生涯の研究テーマにしている人が普通にいる。そうした、他の人が見向きもしないようなものに価値を見つけて人生をかけている人の話が好きなんです。珪藻は実は身近にありふれた生物ですが、顕微鏡で見ればそこに精緻な美の世界が広がっている。それを追求している人がいることに感銘を受けて。日本の珪藻アートの第一人者、奥修さんの『珪藻美術館』という写真集なども参考にしてイメージを構想しました」
第5話「十万年の西風」は、原発の保守・点検を行う会社を辞めた男、辰郎の話だ。彼はどうしても気になって福島に向かうが、旅の途中、海辺で凧をあげている老人、滝口と出会う。滝口は気象学の元研究者で、凧に気象観測器をつけて飛ばしていたのだった。
「科学の功罪がテーマのひとつです。最初に、趣味で凧をあげているように見えるけれども、実は気象の研究をしている人が浮かびました。今は観測器は気球であげるので、凧を使っていたのは昭和のはじめまでらしい。そういうことを調べていくうちに、風船爆弾の話に行き当たったんです。今では馬鹿馬鹿しく思えますが、戦時は大勢の科学者や技術者が総力をあげて取り組んだ一大プロジェクトだった。そこから、現代的な科学の功罪という意味で分かりやすい原発の話にもがっていきました」
科学と向き合う人たちの魅力
思いもよらぬ科学的な情報や考え方に触れることができるのも伊与原作品を読む愉しみだが、
「もともとミステリを書いていましたし、小説で科学の面白さを宣伝しようと意気込んでいたわけではありません。ただ、科学的モチーフを入れましょうと提案されて書いているうちに、自分でもどうやらそこから発想が広がることが多いと気づきました」
それだけでなく、科学と向き合う人たちの奥深さ、面白さが描かれるのも大きな魅力だ。たとえ人づきあいが苦手で孤独に見える人物であっても、その目が見ているのは、とても豊かで広い世界なのだ。
「そうですよね。研究の世界に生きている人がすごく好きなんですよね。そこまでひとつのことを追究して満足できる姿が羨ましくもあります。研究者時代、はじめて会った時にすごく嫌な奴だなと感じた人でも、何年かつきあっているとすごく魅力的に見えてくることがたくさんあって、それが僕の財産になった。そういう人を描きたい、という気持ちがあるのかもしれません」
伊与原さん自身も、かつては研究の世界に身を置いていた人間である。
「中高生の頃から地球や宇宙に興味がありました。宇宙物理学などには頭がついていかないということと、フィールドに出て調査をしたいという気持ちがあって地質学、地球物理学の分野に進みました」
実際に世界各地へ赴き、岩石を採集していたという。小説を書き始めたのは、
「ずっとミステリは好きで読んでいたんです。研究がうまくいかなくてモチベーションが下がっていた時に、ふとミステリのプロットを思いつき、小説を書き始めました。デビュー後も研究職と二足の草鞋でいくつもりでしたが、結局すぐキャパオーバーになって、小説の道一本に。それが運の尽きでした(笑)」
論文の書き方とミステリの書き方は似ている部分もあるそうで、
「論文の場合はデータを出して解析をして結論を出す。ミステリの場合も、どういう順番でデータを提示して結論にたどり着くかを考える。そういう面白さは同じかもしれません。今回の本はミステリではないですが、読者をひきつけるために情報を出す順番については自分なりによく考えたつもりです」
今後については、
「短篇集が続いたので、今は長篇の準備をしています。その小説とは別に、また近未来などスケール感のある話も書きたいですね。読む側としてもそういう話が好きなんです」
いずれにせよ、今後も科学的な題材を作品に取り入れていく予定だ。
伊与原 新(いよはら・しん)
1972年大阪生まれ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。2010年、『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。19年、『月まで三キロ』で新田次郎文学賞、静岡書店大賞、未来屋小説大賞を受賞。他の著書に『磁極反転の日』『ルカの方舟』『コンタミ』など多数。
(文・取材/瀧井朝世 撮影/浅野剛)
〈「WEBきらら」2020年12月号掲載〉