◇自著を語る◇ 室積 光『都立水商1年A組』
商売を学ぶためには商業高校がある。技術を学ぶ工業高校もある。農業を学ぶには農業高校、漁業を学ぶには水産高校……ならば世の中に水商売というものがある以上、水商業高校も必要ではないか?
今から十八年前に、このような発想から書いたのが『都立水商!』である。都立水商が設立される過程と、その後の発展の様子を、退職する教師が回想するという小説だ。
今回の『都立水商1年A組』では、開校から二十七年を経た、現在の水商生の日常を描いている。
都立水商は、中学時代に成績不振でコンプレックスを抱えた子どもたちの集まりだ。彼らに必要なのは「学ぶ喜び」である。これは学校に通うのが当然のこととされる現代日本では、なかなか感じてもらうことが難しい。
かつてこの国には、「蛮カラ」を標榜した旧制高校生たちがいた。同世代の一パーセントしかその資格を得られなかったエリート集団だ。彼らは寮歌をがなり、哲学を論じ、スポーツに興じて青春を謳歌したが、その胸にあったのは正に「学べる喜び」だった。小学校の同級生の内ほぼ八十パーセントの者が十四歳で社会に出て、二十歳になれば徴兵検査を受ける時代に、その二十歳を過ぎても学生でいられる喜びは、現代の我々が想像するより遙かに大きかったであろう。
当時の若者が学び続けるには、経済的余裕と優れた学力の両方が必要だった。高校進学率が九十八・八パーセントの現代においては当然事情が違ってくる。だとしても、
「高校ぐらいは行っておけ」
というアドバイスほど頼りないものはない。これでは、ただ単にモラトリアム期間を延長するだけの進学になってしまう。偏差値順のピラミッドに学校と生徒を組み入れて、同じ勉強を続ける意味はあるだろうか?
高校生が同じ方角に向けて学習を続けるなら、同じ偏差値のピラミッドを築いたまま大学に移行するだけだ。むしろ高校ごとにまったく違うカリキュラムに挑む方が「学ぶ喜び」も得られると思う。
中学の同級生で成績優秀スポーツ万能だったA君が、名門進学校で数学に格闘している時間、都立水商に通う自分はカクテルの作り方を学ぶ。
(きっとあのA君もこんなことまでは知らないだろう)
と思えば授業にも身が入る。
旧制高校生と同じ「学ぶ喜び」の中にいる水商生は、課外活動にも積極的になれる。中学まで抱えていたコンプレックスから解放される爽快感は、他では得られないものだ。
水商生たちは、すべての人々を見下さない精神を叩き込まれ、徹底したサービスの価値を追求する。サービスをお金にするのだから当然だ。だが、そんな勉強を通じて「人間」について学んでいく。
こんな想定がフィクションであっても、「くだらない」と許せない人がいるだろう。
入口では「くだらない」と思ったとしても、その先に展開する彼らの始まったばかりの人生を見守っていただきたい。どこかご自身に共通する痛みと悦びがあるのではなかろうか。