小川洋子さん 『口笛の上手な白雪姫』

第117回
小川洋子さん
口笛の上手な白雪姫
洞窟の壁に描かれていた読めない文字を、
自分が読める文字にしている、という気持ちですね。
ogawasan

 流暢な言葉にならないコミュニケーションが、かけがえのない心の触れ合いを生み出すことがある。小川洋子さんの新作『口笛の上手な白雪姫』は、愛おしい記憶の詰まった短篇集だ。

漠然とした世界の断片を書き留める

 一行一行を慈しみたくなる。小川洋子さんはそんな小説を書く。新作短篇集『口笛の上手な白雪姫』もまた、そんな文章が詰まっている。おさめられているのは二〇一五年から一七年の間に発表された八篇だ。

「このひとつ前の短篇集『不時着する流星たち』は計画的に書いていたので、こちらはその時その時で自由気ままにやろう、という気持ちでスタートしました。でもやっぱり、自分が持っているものからは逃れられず、同じことを繰り返し繰り返し書いているのかもしれません」

 少年や少女、記憶、言葉、声、音楽、動物、それらにまつわるごくささやかなエピソード……。たしかにこれまでの小川さん作品にも繋がる手触りはある。

「自分では手に負えない、すごく大きな、書きたい世界があるんですね。その世界はとても漠然としていて、自分の視界には断片しか映らない。それをデビューしてから作家生活の中で、書いて積み重ねているのかなとも感じます」

 新しいものを追い求めて旅に出ても、戻ってくるのは同じ場所、という感覚。

「新人賞の選考で若い人の原稿を読んだりしても感じるのですが、最近は誰も書いたことのない斬新な小説を書こうとする必要はないと思うようになりました。目新しさというのは小説が本当に求めるものじゃない気がするんです。千年以上繰り返し物語は作られてきていますから、自分が書こうとすることだってすでに誰かが書いていますし。自分が創造主となってゼロから作りあげるというよりも、ふと迷いこんだ洞窟の壁に描かれていた読めない文字を、自分が読める文字にしている、という気持ちですね」

物語の種は意外なところに

 表題作の「口笛の上手な白雪姫」は、公衆浴場にいる小母さんの話だ。施設の一部になっているようなその存在を頼りにしているのは、赤ん坊を連れた母親たち。身体を洗った我が子を小母さんに預ければ、自分が入浴している間面倒を見てくれる。小母さんが得意とするのは口笛。赤ん坊たちはかすかな音色に耳を傾ける。

「昔、銭湯にそういうおばさんがいたけれどどこへ行ってしまったのだろう、と書かれたエッセイを読んだんです。それを読んで"へえ"と思うだけの作家もいれば、私のように書きたいと思う作家もいるということですね(笑)」

 思えば小川さんが描くモチーフは意外な出発点が多い。たとえば『猫を抱いて象と泳ぐ』の主人公の、脛の皮膚を移植したため唇に産毛が生えているという設定も、ある政治家が皮膚を喉に移植手術した記事がヒントになった、と以前語ってくれた。

「私が書くものはつねに現実に根差していますね。それが現実にきちんと存在している、ということが私にとっては大事なんです」

 そこから作家の頭の中で、どのように物語が広げられていくのか。

「小説に書きたいと思ったらスラスラ書けるわけではないんです。自分で考えている状態は、まだ非常に狭い世界に留まっている感じですね。でもある時、理屈で考える状態からぱーっと解き放たれて、小母さんの佇まいや表情が見え、お風呂場の音が聴こえてくるんです。そうやって、自分の頭で考えている状態から脱出した時にようやく書けるんです」

 だから、小母さんがなぜ口笛が得意なのか、なぜ「白雪姫」に出てくるような小屋に住んでいるかは、理屈では説明できないという。では、頭で考えている状態から脱出するには、どうしているのか。

「描写する、ということですね。この短篇は公衆浴場の描写から始まりますが、小母さんはお風呂場の浴槽や蛇口や石鹸受けと同様の存在だったことを描写していくうちに、いろんなものが見えてくるんです。ストーリーを作るという意識はなくて、映画みたいに映し出されているものを描写していく感覚です。つねづね、一行読む時間よりも沢山の時間がそこに含まれているような文章が書きたいと思っています」

物語の種は意外性の連続

 では、他の短篇の出発点はどうだったのか。聞けば、そこからあんな展開が生まれたのか、と既読の方なら驚かれるはず。巻頭の「先回りローバ」は、吃音に劣等感を持つ少年が、ある時出会った不思議な老婆とだけは、よどみなく会話ができることに気づく。

「これは、実際に生まれた日とは別の日に出生届を出された人が昔は結構いた、という話題からですね。本当の誕生日と戸籍にズレがあることから、言いたい言葉と口に出てきた言葉にズレが生まれてしまう少年がいて、そのズレを埋めるために働いてくれるお婆さんと出会う、という話です」

 次の「亡き王女のための刺繍」は、誰かが赤ん坊を産むと必ず出産祝いに刺繍入りのよだれかけを贈ると決めている女性と、子供服専門の仕立て屋の女性の話。

「以前、人から私とまったく同姓同名の方を紹介していただいて。その小川洋子さんが古代ギリシア語の翻訳ができる人なんです。植物の話をしていた時、古代ギリシアの植物誌には、ツルボランは冥途に咲く花だという説明がある、当時の植物誌は実用的な効用の記述にとどまらず、物語になっていたんですね、という話を伺ったんです」

 本作でツルボランは一度言及されるだけだが、なぜそこでこの冥界の地面に咲く花が出てくるのか、ふと不気味な感覚にとらわれる。それにしても出産祝いや刺繍といった題材は後から出てきたものだということに驚く。

 次の「かわいそうなこと」は、世の中の"かわいそうなこと"をノートに書き留める少年の話。彼が選ぶのは大きすぎるシロナガスクジラや、同じ種の動物がいないツチブタ……。これは動物好きの小川さんがツチブタに興味があったからだと推測できるが、興味を引くのは「かわいそう」の定義だ。少年は決して、書き留める動物や人を、上から見下して憐れんでいるのではない。小説の中にも"君は僕の身代わりなのだろうか"という言葉が出てくるが、

「彼がかわいそうに思うのは、もしかしたらそれは自分だったかもしれない、と感じるからです。つまり、もっともかわいそうに思っているのは自分のことなんですよね。生きていくのはなんて切ないことなんだと気づき始めた少年の話なんです」

 息子を亡くした叔母さんとミュージカル「レ・ミゼラブル」を見た記憶を振り返るのが「一つの歌を分け合う」。実際の舞台を観ずに書いたというから驚きだ。

「書く際にパンフレットを取り寄せてもらって読んだり、帝国劇場を外から眺めたりして書いて、本にする前にようやく観に行ったんです。間違いがあったら直そうと思っていたんですが、全然直す必要がありませんでした。作家がいかにいい加減に、見てきたかのように書くものなのか、改めてしみじみ思いました(笑)」

 つまり本作の出発点は観劇体験ではなく、

「『レ・ミゼラブル』を観た人のブログに、終わった後、嗚咽しながら売り場の係の方に有楽町駅の方向を聞いたら平然と教えてくれて、ああ、劇場はどんなに人が泣いてもへんじゃない場所なんだと思った、と書かれてあるのを読んだんです(笑)。人が泣いていても不思議じゃない場所って小説的だなと思ったのがひとつ、舞台の上では、そこにいる人たちが生きているのか死んでいるのかが曖昧に見える場所だな、と思ったことがひとつありました」

 次の「乳歯」は、外国で親とはぐれた男の子が質素な聖堂に迷い込み、ファサードなどに描かれた、苦しむ人々の浮彫に見入る。

「『かわいそうなこと』の少年と同じように、彼も浮彫に描かれる受難の人々を見て、自分のことのように思う。どちらも、他者と自分の垣根が消えてしまう体験をしていますよね。その他者が生きている人とは限らないわけです」

 こちらは教会、あるいは少年の乳歯が出発点かと思いきや、

「よくスーパーの入り口に犬が紐で繋がれていますよね。お利口ね、などと可愛がりながら、この後で戻ってきた飼い主は私と犬の触れ合いを知ることはないんだなと思うと不思議で。それが、迷子になった子どもが一生親には言わない体験をするという発想になりました」

 次の「仮名の作家」は本好きには身につまされる。ある作家を熱烈に愛し、作品は全ページ暗記、新刊が出ると大量購入して町のあちこちにこっそりと置き、さらにはトークイベントにも顔を出し……。はた迷惑な人ではあるが、ここまで何かを愛せるのは幸福のようにも思える。

「自分の書いた小説でこういうふうになる人がいたら、作家としては嬉しいな、という気持ちで書きました(笑)」

埋もれさせたくない記憶に光をあてる

「盲腸線の秘密」では、廃線が決まった列車に毎日乗って、小さな冒険をする曽祖父と男の子の話だ。出先で彼らはウサギを見つけるのだが、

「本当か嘘か分かりませんが、ウサギは撫でてやると偽妊娠すると聞いたんです。男の子がその話を信じてウサギを一生懸命撫でてやるイメージがありました。この子にはもうすぐ弟ができるんですが、自分の居場所がちょっと侵されそうになっている時、ひいおじいさんと過ごすことでその危機を乗り越えるというイメージもありました」

 ひいおじいさんの言葉は不明瞭だが、ひ孫だけは聞き取ることができる。ちなみに『乳歯』でも、少年が聖堂で声をかけてきた男(日本人かは分からない)と言葉を交わす場面がある。

「子どもには通じる、ということはありえるのではないでしょうか。小母さんの口笛やミュージカルの歌もそうですが、言葉を超えたところで人と人が心のやりとりをする、ということもひとつのテーマになっています」

 子どもたちが、親とはまた違う、少し離れた関係、あるいは他者である大人と触れ合うささやかなひとときが綴られていく。

「一人一人の長い人生の、ほんの一日、ほんの一時期の話ですよね。それが記憶に埋もれてしまうのはもったいないと私が思って、取り出して、本という四角い形の宝石箱の中にしまっておきました、という感じですね」

 それこそ、描写の違いが豊かな色彩をもたらすことがよく分かるこの短篇集。

「形式とか題材とか、そういうものの目新しさに小説の本質はなく、描写につきる、と感じます。同じテーマでも、どの角度から何色の光を浴びるかでみんな違ってくる。だから、新しいことをするというのは、題材を新しくするのではなく、書きたいものに当てる、自分だけの光を見つけるってことですよね」

 独自の世界を築く小川さんだからこそ、説得力を持って響く言葉だ。 

(文・取材/瀧井朝世)

小川洋子(おがわ・ようこ)

1962年岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。91年「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞。2003年刊『博士の愛した数式』がベストセラーになり、翌年、同作で読売文学賞と本屋大賞を受賞。同じ年『ブラフマンの埋葬』が泉鏡花文学賞、06年『ミーナの行進』が谷崎潤一郎賞、13年『ことり』が芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する。

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