◇自著を語る◇ 谷口桂子 『食と酒 吉村昭の流儀』

◇自著を語る◇ 谷口桂子 『食と酒 吉村昭の流儀』

奇跡のような夫婦の軌跡

 思いがけないきっかけから、一冊の本が生まれることがある。

 私が吉村昭さんに関する本を書くことになったのは、吉村さんの恩師である丹羽文雄の名前を冠した文学賞を、郷里の三重県四日市市に提案したことに端を発する。

 渡辺淳一さんに賛同人になっていただいたにもかかわらず、それは泥沼の紛争と化し、嘘はつかない、約束は守るといった人間関係の基本さえ踏みにじられた。

 初めて行政にかかわり、世事に疎く、神経繊細な私は、ストレス性胃腸炎と不眠症になった。丹羽文雄の顕彰はこの先も続けていきたいが、そのためにも、行政というのはこのように理不尽な対応をするところなのか、だれか教えてほしい。

 
 それと前後して、同じく丹羽門下だった吉村夫人の津村節子さんに、顕彰のお力添えをお願いし、吉村さんの著作を読み返す機会があった。

 作家は亡くなると読者が急激に減るといわれるが、代表作『戦艦武蔵』を始め吉村さんの文庫はいまも版を重ね、没後十五年の今年に再編集された新刊本も出版されている。

 吉村昭は、いまも第一線の現役作家なのだ。

 随筆を読んで、食や酒の記述が多くあることに気づいた。食べること、飲むことが最大の関心事だと述べている。意外な印象と同時に、にわかに興味が湧いた。

 食と酒を切り口にして、吉村昭に迫れないか、と。吉村昭の食と酒に着目した本はこれまでにない。食と酒はあくまで切り口であって、小説ではないが、吉村昭という人間を描けないかという大それたことを考えた。

 
 着想はよかったが、書き始めるまでに時間がかかった。

 理由の一つは、吉村さんは完璧な人というイメージがあったからだ。絶えず周囲に気を配り、律儀で、ストイックで、決して踏みはずさない流儀を持ち……。それが悪いわけはないが、立ち入る隙がなく、人間としては少々面白みに欠けるような気がする。

 それでも再読しているうちに、気に入った小料理屋やバーを記した手帖があり、いい店には密かにAという印をつけていたなど、愛嬌ある意外な一面を知って親しみが湧いた。

 そうしているうちに糸口が見えてきた。妻の津村さんに「小説さえ書いていればいい」といって求婚しながら、彼女が締切に追われているのを承知で家に客を招く。買い物に出ても時計を気にし、父が帰宅するまでに帰ろうとする母親を気の毒でならなかったとしながら、津村さんがお茶の稽古に出かけるのもいい顔をしない。

 矛盾に満ちているが、人間はそもそも矛盾の産物だ。このあたりから人間的魅力に吸い寄せられた。随分怒りっぽい人だったようだが、それすらチャーミングに思えてきた。

 吉村昭は、津村節子という伴侶なくして成り立たない。私はかつて週刊誌で、著名人夫婦三百五十組のインタビューを手がけたが、かけがえのない組み合わせだと思った夫婦が何組かあった。

 吉村夫妻は間違いなくその中に入り、それは妻から夫への一方的な献身だけでなく、津村さんの代表作が、夫を題材にしたものであることにもよる。

 つまり両雄並び立っているのだ。

 最後まで謎だった夫の最期の場面で、吉村さんの胸中に私なりに辿りついたとき、この本が書けたと思った。

 これは奇跡のような夫婦の軌跡でもあり、いつかその物語を書いてみたいと思った。


食と酒 吉村昭の流儀

『食と酒 吉村昭の流儀』
谷口桂子/著
小学館文庫

谷口桂子(たにぐち・けいこ)
作家、俳人。三重県四日市市生まれ。東京外国語大学外国語学部イタリア語学科卒業。著書に小説『越し人 芥川龍之介最後の恋人』(小学館)、『崖っぷちパラダイス』(小学館)、『一寸先は光』(講談社)、インタビュー集『夫婦の階段』(NHK出版)、ノンフィクション『祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り』(平凡社)などがある。

「本の窓」2021年9・10月合併号掲載〉

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