武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」8. パティスリーポーリー

武塙麻衣子「一角通り商店街のこと」8

〜大学生の雄士とごはんの話〜

8. パティスリーポーリー


 夕方の商店街を歩いていると、前を歩く親子の楽しそうな会話が耳に飛び込んできた。女の子は父親の手につかまりながら一歩一歩飛び跳ねるようにして前に進んでいる。ジャンプする度に彼女が履いているスニーカーのかかとあたりがキラキラと何色にも光り、嬉しさが足元からも伝わってくる。

「お誕生日ケーキは絶対ポーリーね!」

「予約しに行こう。みゆちゃんはどのケーキがいいの?」

「ショートケーキ! お花がいっぱいの」

「ああ、食べられるお花のか」

 二人の会話のショートケーキの部分までは、雄士ゆうじにも理解できた。でもお花がいっぱいというのは? しかも食べられるお花? 前を行く親子の後ろ姿に雄士は思わず首をかしげた。ポーリーというのは、一角通り商店街の人気店ランキングトップ3に常に入るパティスリーだ。以前、喫茶ネムノキの常連で潤子じゅんこさんと千恵子ちえこさんという仲良し二人組(私たち、四十年来の親友なのと千恵子さんは誇らしげに言ってクリームソーダを飲み、潤子さんはカフェオレのカップを手にニコニコ頷いていた)からポーリーのエクレアを差し入れてもらったことがあり、それがものすごくおいしかった。モカチョコレートがかかった軽いシュー生地をさっくり噛みとると、なめらかなカスタードクリームがすぐに口いっぱいに広がる。生クリームに比べてもったりと甘ったるいイメージがあったのだが、ポーリーのカスタードクリームはまったくそうではなかった。つやつやと光沢があり、口に入れた瞬間にふわりと溶けてあとにはバニラの柔らかな香りだけが残る。雄士は目を丸くした。

「こんな美味しいもの生まれて初めて食べました」

 雄士の驚いた表情に、差し入れしてくれた二人はいたく感激し、なんと翌日もう一つまた買ってきてくれるというラッキーなことがあったのだった。そういうわけで、雄士はまだポーリーに行ったことはないけれど、ポーリーの味は知っているのである。パティスリーポーリーは商店街のちょうど真ん中にある真っ白な壁の店で、白いドアの両隣には、ロココ調の豪華な装飾の柱がそびえ、ふたつある窓にはたっぷりの布を使用したボリュームのあるカーテンが取り付けられている。右隣は理容店で左隣は100円ショップ、向かいはハラルフード専門店だ。ポーリーは、なんというかちょっと浮いている。店長はパリの有名パティスリーで何年も修業していたことがあり、潤子さんと千恵子さんの話によれば、かなり素敵な人らしい。お菓子の味はもちろんのこと、店長を一目見たくてわざわざ遠方から買い物にやって来る女性客もめずらしくないのだという。そんなお店に男一人で入るのはなんとなく気恥ずかしいけれど、お花がいっぱいのショートケーキというのは見てみたい。

 ポケットの中でスマホが鳴り、取りだして見ると滝山たきやまさんからの飲みの誘いだった。今月の原稿は書き終えたのだろうか。立ち止まり、「ちょうどバイトが終わったところなので今から行きます」と返信して顔をあげると、前を歩いていた親子の姿はもうなかった。あの女の子の誕生日が、花いっぱいのケーキでお祝いしてもらえる素敵な一日になりますように。

 

「そういえば、雄士くんは何の仮装をするの?」

 訊かれて、ビールのグラスを片手に雄士はきょとんとした。滝山さんから「ここにいます」とLINEで送られてきたのは商店街を横切る遊歩道沿いにある小料理屋「ちえ子」だった。入り口の戸をからからと開けると、手前のカウンター席に滝山さんが座っていた。奥の小上がりにもすでに数人の客が寛いでいるのが見える。滝山さんの隣に腰かけ、ひとまず瓶ビールを一杯わけてもらって目の前の大皿にたっぷり並んだ料理から筑前煮と焼き豚、銀だらの西京焼きを注文したところだった。

「もうすぐハロウィンでしょう?」
「え、仮装するのって子供ですよね?」

 今年のハロウィンはちょうど土曜日だから、確かにイベントがしやすそうだ。そういえば最近、商店街のあちこちにオレンジや紫色のポスターが貼られているし、カボチャやこうもりの形をした風船もたくさん飾られている。自分には関係ないと思っていたから、ポスターをよく見ていなかったのだけれど、ひょっとして商店街全体で盛り上がる一大行事なのだろうか。

「そうよ。一般参加の子供以外にも商店街から代表が出てみんなで仮装パレードするの。はい、お待たせ」

 筑前煮のお皿を手に割烹着姿で厨房から現れたのは、なんとネムノキの常連客、千恵子さんだった。

「店名のちえ子って千恵子さんのことだったんですか!」

 雄士の驚きっぷりにも千恵子さんは澄ましている。

「あら、知らなかった?」

 そしてこう続ける。

「だけどここじゃ大体みんなどこかの店主でどこかのお客さんでしょう?」

 それもそうかと納得しながら手をのばして筑前煮を受け取り、滝山さんと自分の前に置いた。

「去年、パレードで優勝したのって誰でしたっけね」

 滝山さんの質問に、千恵子さんが胸を張って答えた。

「そりゃあもちろんポーリーさんよ」

 またポーリーさんだ。作るお菓子は絶品で見た目も良いときて、仮装パレードで優勝するとは一体どんな人なのだ。ひょいと口にいれた里芋は、よく味がしみていてとても美味しかった。

 

 週末は朝から喫茶ネムノキでバイトである。土日はモーニングを食べにやってくる客が多く忙しいので、普段以上の気合いが必要だ。

「雄士くんが動ける子で本当に助かった!」

 午後に少しだけはさむ休憩時間には、葉子ようこさんもマスターももちろん雄士もぐったりしているけれど、達成感がすごい。頭を使って体を動かすのは単純に気持ちがいいのだ。

「そういえば、昨日滝山さんに聞いたんですけど、商店街のハロウィンイベントってうちは何をするんですか」

 葉子さんとマスターが、同時ににやりとする。

「うちの店は、家族全員で『悪魔のいけにえ』って毎年決まってるんだよね。雄士くんもやる?」

 悪魔のいけにえ? 雄士はぽかんとする。 

「すいません。俺、ホラー映画って苦手だからほとんど見たことなくってちょっと無理かも」

 ええーという夫婦の不満げな叫びに、頭を掻く。なんだかよくわからないがとりあえずここは遠慮しておいた方が良さそうだ。

 午後、アルバイトを終えて帰る支度をしていると、ネムノキ裏の住居の方からさくらが出てきた。柴犬のクルミを連れている。

「散歩?」

 ちょっとそこまで買い物、と桜が言うのでなんとなく一緒に歩くことになった。クルミは商店街の中を歩き慣れているらしく、住宅街や公園を通る時とは明らかに違うきっちりした態度とスピードで雄士と桜の前を進む。夏休みが明けてから、桜と顔を合わせることはほとんどなかったからか、なんとなく緊張している自分に雄士は気付いた。修太しゅうたはこの夏で身長が5センチも伸び、気が付くと目の高さが一緒になり、靴のサイズは抜かされた。ぐんぐん大きくなる修太と比べて、桜は出会った頃からあまり変わらない印象だ。妹の胡桃くるみよりも大人びて見えることは確かだけれど。

「そういえば商店街のハロウィン、悪魔のいけにえの仮装するって本当?」

「まさか」

 桜があっさりと首を振る。

「恥ずかしいから私はもうしないですよ」

 とても楽しみにしているように見えた葉子さんとマスターがちょっと気の毒になってしまった。

「でもパレードは面白いから見た方がいいと思う」

 みんな、かなり力が入っていて子供なんてそっちのけなの。そう言って笑いながら桜が向かった先はなんとパティスリーポーリーだった。重なる時は重なるものだ、と呆気にとられながらクルミのリードを預かろうとすると、

「雄士さんもせっかくだから中、入りませんか? ここ、わんちゃん用の待ちスペースがあるんですよ」

 そう言って桜が、店の脇にある柵で囲われたスペースを指した。『利用できるのは一度に二頭まで。適切な間隔をあけて、リードをきちんとつないでください』と丁寧な字で書かれた貼り紙がしてある。見ると、水の器や犬用のおもちゃなどが等間隔に置いてあり、クルミも慣れた様子で柵の中に入り、芝生にごろりと寝そべった。それじゃあ、と桜と二人で白い扉を押し開けると、店内は更に豪華だった。白と黒の市松模様が磨き上げられたタイル。指紋ひとつ付いていないぴかぴかのショーケースと、窓際には猫脚テーブルがひとつ。壁には柔らかな緑とピンクで小さな植物が一面に描かれている。

「いらっしゃいませ」

 ショーケースの向こうに立っていた店長らしい背の高い男性の声は耳に優しい低さだった。柔らかくカールした髪はベージュのハンチングキャップの中にまとめられ、真っ白なコックコートの首にはキャップと同じ色のスカーフタイが巻いてある。

「こんにちは」

 桜が、友達の誕生日プレゼントにクッキーを買いにきたのだと言うと、店長はそれはとてもいい、という笑みを浮かべ、ではこちらへとショーケースの右の方へ雄士と桜を案内した。中のクッキーには鮮やかな黄色や紫の花が飾られている。

「あ、これ」

 雄士が思わず声をあげると、

「エディブルフラワーです」

 店長が頷いた。

「可愛いでしょう。そのまま食べられるんですよ」

 他の商品は、と見ると、以前お土産でもらったエクレアもあり、その横にはフルーツのタルトやモンブランなども並んでいた。しかし一番目立つのは、何と言ってもカラフルな花々でたっぷりと表面を覆ったショートケーキである。

「綺麗ですね」

 思わずそう言うと、店長は、

「僕は綺麗なものが好きなんです」

 と答えた。そのやけにきっぱりした口調が気になり、ちらりと見上げると、ショーケースの向こうの店長と目が合った。陶器のようになめらかな肌にすっと通った鼻筋、薄い唇はつやめいていて、まつ毛など雄士の倍くらいの量と長さがありそうだ。にっこり微笑まれ、思わずごくりと唾を飲む。厨房に続くドアの向こうで、何かが動く気配がした。ドアの上部についた丸い磨りガラスの窓にぺたりと影が張り付いている。雄士がドアに目をやるのと同時に店長もまたそちらを一瞥し、すると影は跡形もなく消えた。

 桜が選んだクッキーをラッピングしてもらっている間、ふと窓際のテーブルに目をやると、そこには小さな鉢に入ったサボテンがひとつだけ置かれていた。白を基調とした甘やかな印象の店内で、焦げ茶色の鉢に収まった濃い緑色の塊とそれを覆うように生えた細い棘は、明らかに場違いだった。この店とまったく関係の無い人が突然現れて不注意にぽとりとつけてしまった染みみたいな不自然さ。

「棘は、サボテンの進化の過程で葉が退化したものなんです。それが全体を守ってくれてそのおかげでサボテンの花が咲くんですよ」

 クッキーを手際よく小さな箱に詰め、オレンジ色のリボンをかけながら、一度もこちらを見ずに店長が言った。どうして今、俺がサボテンを見てるってこの人はわかったんだ? 何も答えられず、店内に一瞬流れた神妙な空気に明るく割って入ったのは、桜だった。

「そうだ、ポーリーさんは今年は何の仮装をするんですか?」

 店長は、長い人差し指を唇にあてる。

「それは当日までの秘密です」

 くすくす笑う桜に、

「ネムノキさんの『悪魔のいけにえ』は毎年凄みが増しますね」

 などと言って彼は更に桜を笑顔にさせるのだった。その時、もうすっかり耳に馴染んだろろろんというドアベルの音がした。振り向くと、入ってきたのは女性客だ。


 

採れたて本!【デビュー#29】
萩原ゆか「よう、サボロー」第104回