今月のイチオシ本【ノンフィクション】

『ヤクザときどきピアノ』
鈴木智彦
CCCメディアハウス

 著者は、ヤクザの世界を取材させたら日本一のノンフィクション作家。普段はヒリヒリと緊張を強いられる潜入ルポの世界に身を置いている。

 サカナの密漁がヤクザの資金源になっている、という緊迫した取材を終え原稿も校了したという高揚感の中、平日の映画館に入り浸っていた。そこで観た映画が、彼の運命を変えた。

『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』は全編ABBAのヒット曲を使ったミュージカル映画だ。『ダンシング・クイーン』が流れた瞬間、ふいに涙が出た。涙腺が故障したかのように涙があふれて嗚咽が止まらない。身体が音楽に包まれ、雷に打たれるように強い思いが迸る。

〈ピアノでこの曲を弾きたい〉

 実は心の底で彼は幼い時からピアノを弾きたいという欲望を持っていた。だがそれを押し隠し、気が付けば五〇歳を超えた。いま、『ダンシング・クイーン』がどうしても弾きたい。

 そこからが挑戦の始まりだ。音楽教室に問い合わせをして、電話越しに「『ダンシング・クイーン』を弾きたいんです。弾けるようになりますか」と尋ねる中年の男性は当然不審がられ、たいていは「無理です」と拒絶された。

 だが女神が現れる。見学を許してくれた最初の教室にレイコ先生はいた。お嬢様っぽい装いだがハキハキとした対応をしてくれる。

「『ダンシング・クイーン』を弾けますか?」と単刀直入に尋ねるとレイコ先生はこう答えた。

「練習すれば、弾けない曲などありません」

 そこからはまるでスポ根ものを地で行くような練習が始まる。著者の「弾きたい」という思いは本物だ。その願いに応え、レイコ先生も容赦ない。息を呑むような丁々発止のやり取りは、ぜひ文章で体験してほしい。

 新型コロナ禍で不安しかない日々のなか、この本に出合えてよかった。何事も始めるのに遅いことはない。非常事態を抜けたら、何か新しいことに挑戦してみよう。

(文/東 えりか)
〈「STORY BOX」2020年6月号掲載〉
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