思い出の味 ◈ 古矢永塔子
「何も味がしねぇや」というのが食卓での祖父の口癖だった。
私の故郷は、全国食塩消費量上位の青森県。祖父はとにかく味が濃いものを好んだ。母が作った料理に箸をつけると顔をしかめ、醤油瓶に手を伸ばすのが常だった。そんな祖父の大好物が『ウスターソース茶漬け』。炊き立てのつやつやの白米にソースをじゃばじゃばとかけまわし、お茶漬けのようにして食すという、禁断のD級グルメだ。試したい気持ちはもちろんあったが、とんかつにソースを使うときですら、健康志向の母の目を恐れておそるおそる瓶を傾けていた私には、到底真似できない所業だった。
それから時を経て、私は故郷を離れ東京で働き始めた。二年程が過ぎた頃だろうか。終電帰りや徹夜が続き、へとへとで家に帰ると冷蔵庫は空っぽだった。かろうじて見つけた冷凍ご飯をレンジで温めながら、荒れ放題の部屋を眺めた。姿見に映る私は、睡眠と栄養の不足で髪の毛も肌も眼球もパサパサ、ホルモンバランスの乱れからか、当時はうら若き乙女と呼ばれてもいい年齢だったにもかかわらず、口許から髭が数本生えていた。
だからその瓶に手を伸ばしたのは、今更健康なんて気にして何になるんだ、どうとでもなれ、というやけくその気持ちからだった。温まったご飯に真っ黒なソースをかけまわし、茶碗に口をつけてかきこむように食べると、塩辛さにむせ込み、目頭が熱くなった。何の潤いもなく乾き切っていた目から涙があふれた。初めて食べたはずなのに、それはまぎれもなく、私の思い出の味だった。
それから程なく私は会社をやめた。
あれから十年、今は故郷からさらに離れた地で二人の子供を育てながら、あの頃とは違った意味で時間に追われる暮らしをしている。ときどきあの味を思い出す。でも瓶を手に取ることはしない。禁断の味は、そう何度も味わうようなものではないからだ。
現在、祖父は九十五歳。まだまだ元気で長生きしてほしいので、母の目を盗んでソースや醤油の瓶に手を伸ばさないことを、遠い高知の地より祈っている。