荻堂 顕『ループ・オブ・ザ・コード』
「ポスト伊藤計劃」への解
「自分は生まれてこないほうが良かったのではないか?」その思想は古代から存在が知られるものだったが、コロナ禍や地球温暖化の拡大などの不安により増幅され今や世界的なムーブメントとなっている。
新潮ミステリー大賞出身の荻堂顕は、受賞後第一作となる『ループ・オブ・ザ・コード』で反出生主義に挑んだ。
終末のビジョンを引き受け そのうえで希望を描き出す
第七回新潮ミステリー大賞を受賞した荻堂顕のデビュー作『擬傷の鳥はつかまらない』は、歌舞伎町を舞台にハードボイルドと特殊設定ミステリーが融合した、ネタ密度満点で多層的な物語だった。第二作『ループ・オブ・ザ・コード』は世界観もページ数も一回り大きくなり、「ハリウッド的」と言う他ないスケールと人類全体に関わるメッセージを宿している。……いや、「伊藤計劃的」と言うこともできるかもしれない。
「担当編集者に、二作目のプロット候補は二つ出したんです。一つはちょっと小粒だけど収まりのいいミステリーで、もう一つは〝令和版の『虐殺器官』を書こうと思っています〟というコメントを添えた、本作のプロットでした。だったら後者でしょう、と即断でした(笑)」
『虐殺器官』は二〇〇七年に刊行された、伊藤計劃のデビュー作だ。識者の投票による「ゼロ年代SFベスト30」の第一位(「SFが読みたい! 2010年版」)にも輝いた同作、および日本SF大賞受賞の第二作『ハーモニー』は共に、現実社会と地続きでありながらもユートピアを一部実現した世界が、ディストピアへと変貌する瞬間が描かれる。伊藤計劃は二〇〇九年に三十四歳で逝去した。二作に刻まれた人類の未来にまつわる想像力のその先を生み出そうとする、時に〝ポスト伊藤計劃〟と称される先達の物語作家たちの営みを、一九九四年生まれの俊英は自覚的に引き受けたのだ。
「大学生の時に『虐殺器官』と『ハーモニー』を読んで、エンターテインメント的な面白さはもちろん、結末部のビジョンにものすごい衝撃を受けました。伊藤計劃以後に小説家になった、特にSFを書く人間にとっては、伊藤計劃の磁力から逃れるのは難しいというか、意識せずにはいられない存在だと思うんです。ただ、いちファンとして違和感を抱いていたのは、現実社会の延長線上のペシミスティックなビジョンを素朴に披露することは〝ポスト伊藤計劃〟でもなんでもないな、と。そういったビジョンを引き受けたうえで、読んでくれた人が何かしらの希望を持てるような、世の中を良くしていく方向に少しでも想像が進んでいくようなものを描き出す。それこそが令和版の『虐殺器官』や『ハーモニー』になるのではないか、という思いが強くあったんです」
その思いの実現が、本作『ループ・オブ・ザ・コード』だった。
誤解を経由したおかげでより深い理解が生まれる
物語の舞台は、コロナ禍を彷彿させる〈疫病禍〉によって公権力に対する市民の庇護願望が増大し、国際連合および、世界保健機関(WHO)を再編した世界生存機関(WEO)が絶大なパワーを持つようになった近未来世界だ。国際連合は二〇年前にかつてない強権を発動し、国際法違反のジェノサイドを犯したとある独裁国家の歴史の一切を〈抹消〉したうえで、その国土に新国家イグノラビムスを創設した。都市開発に多数の欧米企業が参入した結果、かの国は「小さなアメリカ」と揶揄されるようになった──。
「以前から温めていた抹消される国というアイデアに、〝ポストコロナの世界はどうなるんだろう?〟という想像が加わって、物語のフレームができました。今でこそ意外と世界は変わらないのかなという気がしていますが、新型コロナウイルスがまだ未知の存在だった頃は、国家による上からの管理統制が市民の側から強く求められていた。この小説で書いたような世界もあり得たのではないかと思うんです」
角度によってはディストピアにもユートピアにも見えるその国へ、WEO所属のアルフォンソが着任する。二〇〇名以上の子どもが原因不明の発作に見舞われる奇病を発症したため、現地調査を命じられたのだ。アルフォンソは患者や家族らと面談を繰り返しながら、全容解明と治療法の確立を目指す。いわば、特殊設定医療ミステリーだ。
「何が原因となって子どもたちにその病気が発症しているのか。真相部分に当たるアイデアはおぼろげにあったんですが、それをどう医学的にあり得そうかつ衝撃的なものとして表現できるか、ぎりぎりまで参考文献に当たり取材を重ねました」
もう一本のストーリーラインは、アルフォンソがWEO事務局長から与えられた密命だ。戦争犯罪者である科学者とともに強奪された、生物化学兵器を探し出せ──。こちらの諜報小説パートではアクションシーンが連発し、特殊設定医療ミステリーパートとのコントラストが効いている。「そのあたりは物語の設計上の工夫ですね。僕自身は人と人の会話を書くことの方が好きだし、読者としても小説ではそこが読みたいと思っている。ただ、会話は基本的に動きがないので、あまりにも続きすぎると退屈させることになりかねない。作品内の空気を入れ替えて会話を楽しんでもらうために、アクション要素を取り入れている感覚です」
小説の会話は大きく分けて二種類ある、と言う。
「キャッチボール型かドッジボール型か、噛み合っている会話か噛み合っていない会話か。僕は現実でも小説の中でも、お互いに思いをぶつけ合う後者の会話が好きです。そこでは価値観の違いによるディスコミュニケーションが起きているんだけれども、誤解を経由したおかげでより深い理解が生まれることもある。そこへ辿り着くためにも、長い会話のやり取りが必要だと思うんです」
人の心を動かすなら社会への影響がある
本作において最も多くの人々と会話を交わす人物は、主人公であり一人称の語り手であるアルフォンソだ。故郷や家族を捨て現在は同性の恋人と暮らす彼は、反出生主義者である。
「自分は生まれてこないほうがよかった、生まれることを取り消したいという反出生主義は、反出産主義とも結び付きが強いです。アルフォンソはそのタイプで、自分の出生に関して非常に懐疑的で家族との問題も抱えており、自分の血を継いだ子どもは生みたくないと考えている。それに対してパートナーは、代理母出産で子どもを持つことを求めている。アルフォンソは子どもを持つか持たないか、反出生主義を彼なりにどう乗り越えるのか。予期せぬかたちでいろいろな人と関わるうちに彼の価値観が少しずつ変容していく、その様子を僕自身も追体験しながら、アルフォンソ個人にとっての結末を模索していったかたちです」
反出生主義は、令和の日本において急速に支持されている思想だ。ならばそこを突き詰めることは、「令和版『虐殺器官』」を書くことにも繋がっていく。
「令和以前の平成的な物語は、自分が生まれてから自分の身に起きた出来事を扱っていると思うんです。ただ、最近も〝親ガチャ〟という言葉が流行ったように、令和の若者たちは自分の出生にまで遡って悩んだり葛藤したりしている。僕はたまに知人に頼まれて大学の講義の手伝いをしに行ったりするんですが、学生たちと話していると諦念を持っている子がすごく多い。生まれてから日本の景気が良い姿を見ていないという社会的な事情もあると思うんですが、現実がそうなのだとすればなおさら、物語にできることはあるはずです」
反出生主義を、論理立てて否定することはおそらく不可能だ。ストーリーに乗せた感情的なメッセージを伝えることこそが、この思想に立ち向かっていけるのだ。
「これは伊藤計劃から学んだところでもあるんですが、一人称として読む物語の力を僕は信じています。小説は、人の心を動かすという点では社会への影響があるものだし、未来を作る仕事でもあると思うんです。例えば、反出生主義的な考えをしている人がこの小説を読んで〝生まれてきて良かった〟となるまでの力は、たぶんありません。ただ、生まれてきたことに対して〝まっ、悪くはなかったな〟ぐらいの心情にまでならできるんじゃないか、という希望はあるんです」
令和にデビューした俊英が表明した希望は、ささやかなようでいて、大きなものだった。
疫病禍を経験した未来。WEO(世界生存機関)に所属する「私」は、かつて〈抹消〉を経験した国家〈イグノラビムス〉での現地調査を命じられる。謎の病とテロ事件に突如襲われた彼の国に隠された、衝撃の真相とは? 上下2段組かつ400頁超という器に、生命倫理、ジェンダー、民族、ウイルスほか、現代の論点〝全部のせ〟のエンタメ大巨編!
荻堂 顕(おぎどう・あきら)
1994年3月25日生まれ。東京都出身。早稲田大学文化構想学部卒業後、様々な職業を経験する傍ら執筆活動を続ける。2020年、『擬傷の鳥はつかまらない』で第7回新潮ミステリー大賞受賞。本作はデビュー二作目。
(文・取材/吉田大助 写真提供/藤岡雅樹)
〈「STORY BOX」2022年11月号掲載〉