週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.79 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん
『短歌のガチャポン』
穂村 弘
小学館
何もかもが心を迂回していくようだった。言葉はすべて本心を避けて通った。
なけなしの社会性はとうに擦り切れ、もう何の気力も残っていないというのに、立ち止まる術が無い。
夕暮れが懲りもせず私を急き立てる。靴の埃を払う事さえ出来ないような日々に、幾度となく自分を恥じた。
やがて冬が訪れても、豪雪ののち翳りの中にいつまでも溶け残る雪のように、私の心はそこに留まり続けた。何度太陽が昇ろうとも、決してその陽射しの届かない深い翳りに。
私の感性は日を追うごとにやつれて行った。季節の匂いも何一つ感じ取れない。ただ風の冷たさばかりが身に染みた。
旅に出なければ、と思った。海でも山でも煙った街でも、何処だろうが構わない。社会の暗黙的了解から遠ざかり、喧騒と焦燥を忘れ、ただ風景の中に居られる時間。鄙びた心がそれを強く求めていた。その間に読めずに積み上げていた本の一冊でも読めればそれでいい。私は束の間の旅に出ることにした。
道中で、あるいは辿り着いた宿で、携えたこの本を読んで過ごした。そして最も気に入った一首を喉の奥で繰り返しながら、しばしK市を歩き回った。
ふきあがるさびしさありて許されぬクレヨン欲しき死刑囚のわれ
島秋人
この世に人の落とす翳のうち、最も暗いものは何だろう。
独房に満ちた寂しさの手触りがどんなものか。そこに横たわる囚人の、胸の暗がりがどれほど深く入り組んだものか、私はそれらの実感を知り得ない。知り得ないはずの物が、このひとまとまりの言葉を介して、確かな感触を伴って感じられる。
現代において、目を惹く言葉は数多ある。一夜限りの存在を謳歌し、次の朝には忘れられている様な言葉。そのような言葉たちが持ち得ない力、人の心を強く惹きつける引力を、私は短歌というものに感じる。
迎合した言葉に美しさは宿らない。社会に自ら背を向け、社会から隔離された者が、誰の為でもなく自己の救済の為だけに作った歌。その切実さと背負う業の重さ、また無彩色の独房に散るクレヨンの鮮やかな色彩の想起が、この歌を忘れられないものにした。
雪風の朝、バスに乗って私はK市を発った。街並みを車窓の向こうに見送り、雪の吹き荒ぶ風景の中を黙ったまま運ばれていく。やがて太陽が真白な空に輝き始め、気が付けば車窓の向こうの木々も田園も家々も元の色を取り戻していた。
私の心には未だ翳りの雪が残っている。しかしどれだけ頑なな雪だろうと、春には姿を消すものだ。
あわせて読みたい本
『短歌ください』
穂村 弘
角川文庫
穂村氏の選による、読者投稿をまとめた歌集。意外性のある優れた歌がこれでもかというほどに並び、濃度の高い現代短歌の世界を存分に味わえる。
おすすめの小学館文庫
『短歌という爆弾』
穂村 弘
小学館文庫
「短歌」という名の爆弾製造指南書。その爆発がもたらすものは、退屈な日常風景の破壊と再生。壊される側から壊す側へ。穂村氏と短歌との出合いが語られる『終章──世界を覆す呪文を求めて』が胸に刺さる。