著者の窓 第23回 ◈ 真山 仁『タングル』

著者の窓 第23回 ◈ 真山仁『タングル』

 企業買収の裏側を描いたヒット作「ハゲタカ」シリーズをはじめ、『売国』『オペレーションZ』など現代社会と鋭く向き合う作品で知られる真山仁さん。最新作『タングル』(小学館)は、日本・シンガポール共同の光量子コンピューター開発プロジェクトに携わる人々の姿を追った、熱くスリリングな物語です。安全保障や金融システムを一変させてしまうという最先端技術は、両国にどんな未来を見せるのか? シンガポール政府観光局のオファーをきっかけに生まれたリアルなフィクションの舞台裏について、真山さんにうかがいました。


日本とシンガポールの新しい関係を模索する物語

──『タングル』は「本の窓」(二〇二〇年六月号〜二二年五月号)に連載後、加筆・修正を経て刊行された長編小説です。執筆のきっかけはシンガポール政府観光局からの提案だったとお書きになっていますが、その経緯をあらためて聞かせていただけますか。

 二〇一四年に「F1シンガポール・グランプリを観戦して、原稿を書かないか」という原稿依頼がありました。シンガポール政府観光局(STB)とのタイアップ企画で、レースの感想とシンガポールの魅力を書いてくれと。それもF1の知識がなくて、生でレースを観戦したことがない作家がいいという話でした。私は車好きですが、F1はまだ観たことがなかったので、やりましょうと返事をして四、五日向こうに滞在したんです。
 STBの東京支局が私のことをどう伝えていたのか知りませんが、滞在中も「シンガポールを舞台に小説を書かないか」と言われました。社交辞令だろうと聞きながしていたんですが、掲載された原稿を気に入ってくださったのか、ますますSTBが前のめりになって、「ぜひ実現させたい」と。そこまで言ってもらえるなら断る理由もないですから、喜んでやりましょうとお返事しました。

真山仁さん

──『タングル』は日本・シンガポール共同の先端技術開発プロジェクト立ち上げを、両国のさまざまな立場の人びとの目を通して描いた作品です。内容についてSTBから要望はあったのでしょうか。

 最初はシンガポール各地に散らばる謎を解いていく、宝探しのようなミステリーのプロットを提案したんです。すると「こんなありきたりな内容はやめてくれ」と言われました。あなたが小説で日本社会を色々批判しているのは知っている、同じようにシンガポールの現状を批判的に描いても構わないというんです。気を遣わず好きに書いてよいのは、小説家としてはありがたい話でしたが、それで悩むことにもなりました。日本とシンガポールの現状を浮き彫りにしながら、両国の新しい関係を模索するような小説にするには、どんな題材がふさわしいのか。各々の強みを活かし合うにはどうすればよいのか、いくつものアイデアを検討した結果、完成まで八年もかかってしまった。

光量子コンピューターの第一人者・古澤明教授をモデルに

──題材に選ばれたのは、スーパーコンピューターを超える性能を備え、国家の安全保障や金融システムを一変させるとも言われる「光量子コンピューター」。これはSF的な空想ではなく、東京大学工学部の古澤明教授らによって実際に研究されているものだそうですね。

 そうです。量子コンピューターはアメリカのグーグルやIBMも研究に乗り出していますが、東大工学部の古澤教授が世界のトップ争いをされている。ぜひ協力していただきたいと思って、直接お願いのメールを送りました。先生の研究室を予算の少ない日本から、資金と設備が潤沢なシンガポールに持って行くような小説を書きたい、とお伝えしたら数時間後に、喜んで協力しますと返信がありました。

──それまで量子物理学へのご関心は?

 人並みに関心はあったのですが、知識はほぼゼロでした。これまでも理系の話はいくつか書いていて、宇宙開発や原発の技術を学ぶのも大変でしたが、今回はイメージが掴みにくくて今まで以上に苦労しました。ところが初対面の古澤先生は「理論的なことは分からなくて当然、無理に理解しようとしなくていいんです」と(笑)。そして、スパイの暗号解読とかクレジットカードの量子暗号がよく話題になるけれど、それ以上に量子コンピューターには大きなメリットがある。それはスーパーコンピューターに比べて、地球環境への負荷が少ないことだとおっしゃった。世界最先端のスパコンだと、冷却するために原発一基分もの電力を消費する。その点、光量子コンピューターなら、はるかに少ない消費電力で動かせる。これは革新的な技術だなとあらためて実感しました。

真山仁さん

──作品には光量子コンピューターの第一人者として、早乙女貴一という人物が登場します。カリスマ研究者でありながら、「本業はフリークライミングで、研究は趣味」と言ってのける自由闊達な早乙女のキャラクターには、現実の古澤教授が反映されているんでしょうか。

 早乙女の言動や業績は、ある程度古澤教授をモデルにしています。もちろん変えている部分も多いですが、研究者の芯のような部分はそのまま使わせていただこうと。
 フリークライミングではないですが、古澤さんもやはりある趣味に打ち込んでいるんですよ。私は通常、実在する人物をイメージして小説を書くことはしません。たとえば『ハゲタカ』でも、具体的なモデルがいる登場人物は一人もいない。しかし日本で光量子コンピューターの第一人者といえば、古澤さん以外考えられない。そこで敢えて、早乙女は古澤教授がモデルと伝わるような書き方をしました。

挫折を味わった世代の共闘が生み出す、熱いドラマ

──元商社マンの望月嘉彦は、日本産業振興の裏業師と呼ばれる伝説的人物・天童に誘われて、日星(シンガポール)両国共同のシリコンバレーを作るという一大プロジェクトに加わることになります。東南アジアの事情に通じた元商社マン、という望月のキャラクターはどのように生まれたのですか。

 早乙女の研究にシンガポールが出資するのは、それが産業化されると莫大なお金を生むからですね。そのためのプロデューサー的な役割としては、東南アジアで活躍してきた商社マンがちょうどよかった。もの作りの視点からは、国産メーカーの社員でもよかったんですが、商社マンの方がより広い視野で、両国の調整役になれそうだなと。これまで商社マンを主人公にしたことがなかったので、新しい挑戦ができるとも思いましたね。

──一方、シンガポール国家開発省長官のボビー・チャンは、早乙女研の受け入れに奔走します。かつて挫折を味わった望月とボビー。国境を越えて共鳴する思いが、「オペレーション・ドーン(夜明け)」と名づけられた開発計画を動かしていきます。

 望月はインドネシアでのODA(政府開発援助)に絡んだ汚職事件に巻き込まれているし、ボビーはシンガポールにあるジュロン島の石油化学コンビナート建設プロジェクトなどで挫折しています。こうした過去のエピソードは、単行本化にあたって書き足した部分ですね。物語の中心になっている望月やボビーの挫折を描くことで、彼らがプロジェクトに邁進する理由が金儲けだけではないと伝わりますし、ドラマ性がより強くなると考えたんです。

真山仁さん

──近年シンガポールは金融業と観光業でめざましい発展を遂げてきました。しかし作中では、シンガポール社会の抱えるさまざまな問題が浮き彫りにされています。

 税の優遇や低金利の資金提供で、世界中の先端企業を集め、一大集積地を生み出すというのがシンガポールのやり方。長年のしがらみや規制で身動きが取れなくなっている日本とは、ビジネスの自由度や瞬発力は比べものになりません。海外の富裕層に国籍まで売ってしまうドライさと、国民の人権をやんわりと制限する厳しさで、〝開発独裁〟を推し進めてきました。ただ人材不足に悩まされており、自分たちで新しいものを生み出すことが難しい。望月が言うように「ヤドカリビジネス」で、海外の技術力に頼って経済発展せざるをえない側面がある。厳しいことを書いても構わないというので、遠慮なく書かせてもらいましたが(笑)、実際にこのままでいいのか、という思いを抱えているシンガポール人は多いはずです。

メビウスの輪のような関係がもたらすもの

──高い技術力を持ちながらも〝沈みゆく経済大国〟となった日本と、資金は潤沢でも人材難にあえぐシンガポール。両国が「メビウスの輪」のように互いを追いかけることで、新しい関係が築かれていくのではないか、という展望には胸躍るものがあります。

 日本にいるとシンガポールの経済発展がまぶしく見えますが、彼らも日本から学びたいと思っている。特に知りたがっているのが高齢者対策。「なぜ日本人は福祉にそんなにお金を使うんだ?」とシンガポール滞在中、よく聞かれました。シンガポールの若者が日本に留学して、学生たちが自由に政権批判している姿にショックを受けたという話もあります。シンガポールでは考えられないと。経済成長の裏に潜むマイナス面が見え始めていて、そこから抜け出すヒントを日本に求めている。
 この両国がメビウスの輪のような関係を築ければ、先進国が新興国からむしり取るという構造から抜け出すことができますし、アメリカやヨーロッパ諸国に「そういう古くさい発想はやめませんか」と意見することもできる。アジアや地球全体にとって、両国が連携することは大きな意味があると思います。

真山仁さん

──望月やボビー、早乙女研スタッフの尽力によって軌道に乗り始めた共同プロジェクト。しかし日本・シンガポールそれぞれの利益を最優先する勢力が、かれらの前に立ち塞がります。望月たちは旧世代のしがらみを排除することができるのか? 世代間の対立構造が、物語をよりスリリングなものにしています。

 バブル時代、アメリカが日本を叩くことで浮上しようとしたように、自国最優先で動くのは国際社会の常識です。日本がシンガポールを利用するのも、その再現とも言えます。自国のサバイバルのためには、そうした古いやり方が有効だと考えがちです。シンガポール側も〝貸し〟を有効活用して、日本にさまざまな要求ができますしね。その構造を覆すのは並大抵のことじゃない。本当にその覚悟があるのか、とボビーたちに問いかけてみたかった。シンガポールはまだ若い国ですし、もしかしたら可能かもしれない。だとすれば、若い世代に希望を託したいと考えました。

──「オペレーション・ドーン」はフィクションですが、日本の光量子コンピューターが社会を変える日が、そう遠くない未来にやってくるかもしれませんね。

 東大の古澤研には世界中の注目が集まっています。経産省も支援に乗り出しましたし、ノーベル賞もいずれ受賞すると思います。個人的には資産家の皆さんにも、日本の将来のために積極的に投資してほしいと思いますね。昔から成功者は、多額の寄付をして尊敬を得てきたものです。ビル・ゲイツが人格者かどうかはさておいて、彼の社会貢献は立派なものですよ。この作品はエンターテインメントなので楽しんでもらうのが一番ですが、そうした問題も含めて、いろいろ考えるきっかけにもなれば嬉しいです。


タングル

『タングル』
真山 仁/著
小学館

真山 仁(まやま・じん)
1962年、大阪府生まれ。同志社大学法学部政治学科卒。新聞記者、フリーライターを経て、2004年、企業買収の壮絶な裏側を描いた『ハゲタカ』でデビュー。同シリーズはドラマ化、映画化され大きな話題を呼ぶ。他の著書に『マグマ』『売国』『当確師』『オペレーションZ』『ロッキード』『墜落』など多数。

(インタビュー/朝宮運河 写真/松田麻樹)
「本の窓」2023年2月号掲載〉

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