SPECIALインタビュー ◇ 加納愛子『これはちゃうか』
お笑いコンビ・Aマッソの〝頭脳〟としてテレビや YouTube、ライブを中心に活躍中の加納愛子。近年は文芸誌でエッセイや小説を精力的に執筆している彼女が、このたび初となる小説集を発表した。そのユニークな発想の源から、お笑いと小説というまったく異なる表現への思いまで、余すところなく聞いた。
加納愛子の上梓した『これはちゃうか』は、実にみずみずしい短編集だ。あらゆる人間関係の機微を唯一無二の視点で見つめ、漫才やコントで笑いに昇華してきた彼女が、登場人物たちの心の襞を小説に落とし込む。その手付きは鮮やかだ。オープニングを飾る「了見の餅」は、自身が芸人になったきっかけとも重なる。同じアパートに住む友人・よっちゃんと、主人公の〝私〟のボケツッコミのやり取りは軽妙で楽しいが、餅が茹でられる片手鍋から立ち上る湯気のように、切なさが漂ってくる。
「子どもの頃から同性にかまってほしいというか、笑ってほしい気持ちがけっこう強かったんです。人間同士って、趣味か利害関係で繋がることがほとんどじゃないですか。例えばマンガが共通の趣味な友人関係って、マンガを取ったらどうなっちゃうの? と昔から思ってたんです。そうじゃなくてただ単純に《喋ってておもろいヤツ=仲いいヤツ》じゃダメなんかな? って。そのフラストレーションを発散するために芸人になったところもあるんですよ。だから『了見の餅』がいちばん自分の気持ちがストレートに出てるかもしれないです」
続く「イトコ」も、主題になりにくい微妙な血縁関係である「イトコ」を丁寧に咀嚼していく。これが言いたくて書き始めたという冒頭2行はこうだ。《「イトコの存在って、私にとってのイトコってことでしかなくて、だからイトコにとって私がイトコである、っていう事実、まじ意味わかんなくないですか?」》。親子や兄弟・姉妹、恋人同士、もちろん友人とも違う「イトコ」。名付けられた確固たる関係だけれど、日常というミクロの視点で見ても、人生というマクロの視点で見ても、どうでもいいくらいの距離感でもあるイトコ。このなんとも言えないむずがゆさを強調した上で、そこからさらに掘り進めていく様が見事だ。
前半の締めくくりは、加納が本書の中で最も書きやすかったという「最終日」。大学生の柳川は自分らしさのゲームに一人翻弄され、自意識がこんがらかって自家中毒になっている。その末に彼女がたどり着いたのは「最終日フリーク」というキャラ設定だ。美術展やロックフェス、初売りセールやいちごフェアなど、あらゆるイベントの「最終日」にだけ行くキャラに自分を設定して、自分を保っているのだ。そんな彼女がフェルメール展最終日の行列で見かけたのが、同級生の雨宮柊子だ。「自分がしっかりあるタイプ」の雨宮を、柳川は斜に構えて、からかいの目で見ている。雨宮の Instagram を見て、こんなことを言う。《彼女が彼女らしいテンポで生きているのが全ての画像から伝わってくる。自然体なの伝われ、って聞こえる》。柳川の一人称で書かれた小編だが、加納が共感を寄せるのは雨宮のほうだという。
「私って雨宮柊子みたいな人間を小馬鹿にしてるタイプと思われがちなんですけど、逆なんですよ。『最終日』では、他人をナナメに見て小馬鹿にしながら優位に立った気になってる主人公・柳川の鬱陶しさを書きたかったんです。だって単純に『最終日』だから行くだけの女より、好きな絵を2度見に行っちゃう女のほうが純粋にかわいいじゃないですか。あと、キャラに縛られた芸人の滑稽さを投影して書いた部分もあります。『最終日に行くキャラ』って設定を決めて動くのって最初はラクやと思うんですよ。キャラが決まると行動が決まりますから。でも、そこから先に行くときに絶対に邪魔になる。『毎日ラーメン食べてます』っていう設定に縛られて、SNSでしんどそうに毎日投稿してるヤツとか見ると『アホやなぁ』って思うじゃないですか(笑)。私自身、テレビに出させてもらうってときに、『◯◯芸人』というくくりでパッケージされたことがあって。そのときすごく窮屈だったんですよね。変な話『ギネス記録に挑戦!』とかもイヤなんですよ。別にその種目とか競技に興味があるわけじゃなくて、世界一になるために、そこに熱中してるキャラっていうのをやってるだけだから」
芸人の滑稽さを大学生に落とし込むことで、読者も共感しながら読み進められる。とはいえ、芸人はやっぱりキャラが定まっていたほうが生存戦略として優位ではないのだろうか。
「そういう芸人もいるかもしれないけど、人って本来けっこういろんな面があるじゃないですか。キャラにムラがあるというか。同じ言葉を言われても違う返事が返ってくることもよくあるし、関係性でも変わってくるし、その日の気分でもけっこう変わる。そのムラをおもしろがれたほうがずっといいよな、と個人的には思いますね。キャラに縛られて、その枠からはみ出せなくなってるのは、やっぱもったいないと思います」
加納はいつだって人間そのものをおもしろがり、〝キャラにムラがある〟ことも肯定する。彼女の視点を借りることで、我々も人間のゆらぎを笑う余裕が得られるのだ。
女子びいきな加納のまなざし
4作目の「宵」は大学の映画サークルが舞台だ。監督の内田正志が撮ったフィルムの一部が、コンテスト直前に消えてしまう。時を同じくして、内田の恋人である佑香の撮ったバンドのミュージックビデオのデータも消失する。この映画サークルでは映画のフィルムが不意に無くなってしまうことを「〝宵〟が出た」と言うのだ。加納自身、同志社大学時代に映画サークルに入っていたこともあり、この「宵」もてっきり「映画サークルあるある」なのかと思いきや、「ないない」らしい。
「フィルムが欠けるなんてことは実際にはあんまりないです。私の場合、逆に『フィルム無くなったことになれへんかなぁ』って思ったことがありました。私が大学で初めて映画作ったとき、完成したのを一人で観て、『これ、おもんないかも……』ってなって。サークルのみんなに協力してもらったのに、おもんないとか許されへんから、フィルム無くなったことにならへんかなぁって。私は宵が出てほしかった側の人間です(笑)」
ところで、佑香のもとに宵が出るとき、彼女が恋人の内田ではなく、役者である圭佑と関係を持っていたのが気になった。なぜこの描写が必要だったのだろうか。
「大学生って異性の外見じゃなくて、才能とかの内面に惚れたふりしたいんですけど、結局動物的やったりする。特に映画サークルだとクリエイティブなヤツと付き合ったら、自分も才能あるっぽく周りから見てもらえる。でも結局自分の動物的な面に負けて、顔がいい役者のほうになびいちゃう。そういう女子のしょうもないけど、どっか憎めんところを描きましたね」
加納の眼差しはとことん女子びいきだ。実際「女の子に甘いんですよね」と自認している。しかし、加納の女子びいきは、シスターフッド的な連帯とも、男性を排他するミサンドリーとも違う。加納にとっての圧倒的真理である「女子がおもしろい」に基づいた指向に感じられる。そこには「女子のほうが」「男子のほうが」といった比較もない。ただただ、なぜみんなはもっと女子のおもしろさに気づかないんだろう、と戸惑っているようだ。
「ファシマーラの女」は、次々と〝駅が生える〟町に住む女・ニキの物語。これもまた女性が主人公の短編だが、コントでは難しそうな設定だ。どちらかというと「駅が生える」という言葉遊び、漫才の発想から生まれた物語かと思い尋ねると、ちょっと違う返事が返ってきた。
「この短編集の中では『ファシマーラの女』がいちばん書いてて楽しかったんですけど、それはツッコミがいらへんからなんですよね。だからこれは漫才でもできないと思います。漫才中に『その町には駅が生えんねん』って言うと、『なんやそれ』ってツッコミが入らなアカン。こういう話を漫才でやろうとすると、ちょっと不思議系すぎてお客さんとの距離も生まれるんですよ。でも小説だと〝そういう物語〟として読ませられるから楽しいなあと思いました。お笑いってお客さんのほうが『笑かせてみろ』って偉そうにしていいエンタメだけど、小説は文字側がドン! と構えて、読者がそれを能動的に読みにいくじゃないですか。だから小説だとこういう一見意味がわからない設定でも書けるんですよ。そこは小説の自由さだし、書いてて楽しいところでしたね」
こんな不思議な設定でも、そのひらめきは卑近な違和感から生まれているというのが意外だ。
「地元が好きなヤツにずっと違和感があったんですよ。地元ってすごい抽象的に言うけど、お前が好きな地元って人? 場所? なに? って気になるというか。じゃあ人がいなくなったり、好きな場所が失われたりしたら、お前は地元のこと嫌いになるんか? って。そういう『地元好き』って言う人の気持ちがよく理解できなかったんです。だからこの小説では、その土地にずっと愛着があって、駅が次々と生えて、町がどんどん変わっていってもそこに住み続けるニキさんの異様さを書いたんです」
長編を書くなら、芸人として腹をくくる必要がある
ここまで女性中心の物語が並んだが、最後の「カーテンの頃」だけは違った。15歳の少年・沢田は、母の死をきっかけに、両親の仲人であった中年男性「にしもん」と同居を始める。ちなみに父は女を作ってすでに家を出ている。この話のテーマは「知り合い」だった。
「小説はどれも書くのがムズいんですけど、これを書くときは何も浮かばんくて、ある人に『なんかお題くれへん?』って頼んでもらったテーマが『知り合い』やったんです。で、いろいろ考えて思い出したんですよ。そういえば私が子供の頃って、オカンとオヤジの友達がよく家を出入りしてたなって。知らないオバチャンやオッサンが平気で家におったんです。私にとっては何者でもない、ただの知り合いなんですよね。あの感じを思い出して、その知り合いたちをミックスさせて作ったキャラが『にしもん』でした」
沢田の母親は生前「もしちゃんと自立する気があるんやったら、にしもんを頼りなさい」と言った。沢田には「自立」と「頼る」ことが両立する意味を理解できないが、母に従い、にしもんを頼る。案の定、にしもんは肉親を亡くした沢田を決して子供扱いせず、《親がいないことの不便さも全て大学生になったら経験することで、お前はそれを三年早く経験するだけ》と言い放つ。しかし、一人で生きていく局面で子どもに必要な存在は、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる大人ではなく、道を示すだけの無責任な知り合いだ、という説得力が、ここにはある。
「にしもんはある意味ドラえもんに近いんですよ。こういう人がいてくれたらいいなって。なんとなく私が子供の頃は、家族とは違う大人が生きやすくなるような言葉をくれることってよくあったんですよね。大切な言葉をくれたとかではなくて『こんな感じで生きてもいいんや』ってラクにさせてくれるというか」
加納にとっては、にしもんを描くことよりも、沢田の感情の機微を丹念にたどることのほうが難しかったという。
「これは多分、自分に文章の実力が足りないからやと思うんですけど、すぐ素直に書いちゃうんです。沢田の感情をまっすぐに捉えすぎてしまう。そうすると『にしもんがいてくれてホンマ助かるわ〜』で終わってしまって、文字数が足らなくなってしまう(笑)。ドリブル力がないから、すぐシュートしちゃうみたいな感じですね。そんなんじゃ決まるもんも決まらんよって。もうちょっとドリブルして、ゴールに近づいてから打たないといけない。私、バスケ部だったんで、すぐバスケで言いたくなるのが悪い癖なんですけど(笑)」
漫才やコントとは異なる加納のドリブルを堪能できるのが、彼女の小説を読む醍醐味のひとつなのかもしれない。そして加納は「小説は何書いてもいいのが難しいし、そこがおもしろい」と話す。
「お笑いは笑われへんことは書けないけど、小説は本当に自由で、書いたらアカンことがほとんどないんです。そういう意味では自由すぎて難しいなって思うところもある。それに、やっぱり芸人なんで、『これ以上書いてしまったら、お客さんが笑いづらくなるな』って抑えたところもあります。そこはどうしても保守的になっちゃったかもしれない。今後もし長編を書くってなったら、そこも芸人として書けないことも書くって腹をくくらんといけないんでしょうね」
『これはちゃうか』を読んだ後では、加納の長編小説を期待してしまう。芸人として生きることと、おもしろい小説を書くことのジレンマは、素人にははかりしれないから、なんとも勝手な願いだが……。
「私、又吉(直樹)さんの『火花』とか『劇場』が好きで。何回か読み返してますけど、やっぱり又吉さんもかなり腹くくったんやろうなと思います。又吉さんの小説を読むとどうしても、ピースさんのコントも、今までのようには笑えなくなる部分があるんです。ああいうことを考えてる人のネタなんやっていう先入観を観客が持ってると、笑わせるのは難しい。『なんも考えんと、ただ笑ってください』っていう嘘がつけなくなるんです」
たしかに又吉が芥川賞を受賞したのは2015年、その翌年にはピースは事実上の活動休止に至っている。そんな前例があって、それでも加納が小説にチャレンジするのはなぜなのか。
「私自身、ずっと小説が好きで読んできて、お笑いと同じくらいリスペクトしてるんです。せっかくチャンスをもらったなら、リスクを背負ってでも挑戦する価値があるのが小説。それくらい圧倒的な文化だと思います」
加納はあるインタビューで本作は「自分の範囲でしか書けませんでした」と言っていたが、その真意はなんだったのか。〝自分の範囲〟という言葉の含意するところが気になった。
「おもしろい小説を書く作家さんって、多分自分でもびっくりしてると思うんですよね。『えっ、すごっ! こんなんできた!』って。この感動って私も芸歴5年目くらいまではよく感じてましたけど、ネタを作り続けるとどんどん減っていくんです。それはだんだん自分の手の内がわかってくるから。それで自分の範囲を超えるために、誰かと一緒にネタ作ってみたり、環境を変えてみたりして、外部との化学反応の中でその『びっくり』を味わうんですよね。小説を書かせてもらえるなら、一生に一回くらいは『知ってる範囲』を飛び出して『こんなんできた!』を味わいたいなと思います。いろいろ言いましたけど、結局必要なのは根性なんですよ。もっと深くまで突き進む気合い。私やっぱりバスケ部なんで、根性論で考えちゃいますね(笑)」
加納愛子(かのう・あいこ)
1989年大阪府生まれ。2010年、幼なじみの村上愛とお笑いコンビ「Aマッソ」を結成。ネタ作りを担当する。ライブシーンで評価を得てきたが、近年テレビなどメディアにも活躍の場を広げている。「女芸人No.1決定戦 THE W」(日本テレビ系列)では、2020年から3年連続で決勝進出。著書にエッセイ集『イルカも泳ぐわい。』がある。
(取材・文/安里和哲 撮影/小倉雄一郎 衣装/MILKFED.SHINJUKU)
〈「STORY BOX」2023年2月号掲載〉