連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第7話 三島由紀夫さんの葬儀

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の第7回目です。「三島由紀夫」といえば、その壮絶な最期はもとより、繊細な描写に満ちた独自の世界観を持つ作品の数々で広く知られています。当時のエピソードを振り返ってみましょう。

 実を言うと、私は三島由紀夫さんに会ったことはない。
 三島さんが来社されたとき、警備員が緊張のあまり、「エレベーターで上がっていただくのもなんですが」と可笑しなことをくちばしって、エレベーターに案内したときに、たまたま通りかかった私が、閉じてしまったエレベーターの扉を虚しく眺めていたことが一度あるだけだ。
 いまはコロナのせいもあって、作家や挿絵画家、アート・デザイナーなどが亡くなっても大々的な葬儀は行わずに、家族で密葬をすることが普通になっている。
 だが、私が編集者になりたての頃からしばらくは、作家の葬儀がかなり盛大に行われ、その手伝いに若手の編集者が駆り出されることが多かった。
 私は出版社に入社して、8月に小説雑誌の編集部に配属になった。その当時は、駆け出しの編集者は作家の担当は持たせてもらえなくて、短歌、俳句、川柳などの読者からの投稿作品をそれぞれの専門家に届けて、選考してもらい、当選作何点かと選評を載せるような細かい仕事をやっていた。
 しかし、たった1ページの投稿欄だったが、その選考にあたる人たちはそれぞれの道の大御所だった。だから、大学を出たての私からすると、大そう歳をとっているように見えた。
 社会人になって初めて大金と言える買物が黒いスーツになったのは、まったく小賢しい考えだった。これなら冠婚葬祭に間に合うはずだと考えたのだ。小賢しいと言えば言えるが、川柳部門の選考委員をされていた川上三太郎さんが、それからすぐ12月に亡くなられ、黒いスーツをその葬儀に着ていくことになったのだから、なんだか罪の意識に似たものにかられたものだ。 
 それはともかく、当時は出版各社に冠婚葬祭の名人がいた。一旦、コトが起きると、と言っても「葬」の方が主だったが、この名人たちが額を寄せ合って、まず葬儀委員長を誰にするかとか式次第やらを決めて、それから案内係、駐車場の係、場内整理などの係の割り当てから、それをどの社がどれくらいの人数を出して務めるのかなど決めるのである。
 どの係になるか、動員される若手編集者にとっては大変な問題になる。葬儀は概ね、暑い盛りか、寒い盛りが多いのだ。そんなときに、道順の案内係や駐車場係のように空調のない屋外の仕事は敬遠したいのが人情である。だから、その会議で大きな顔をして、いい係を割り当ててもらってほしいのだ。
 もちろん、冠婚葬祭係の力関係だけで決めるのではなく、亡くなった作家と、出版社との関係が深いとなれば、その出版社は、空調の効いた場内係とか香典の集計係なんかの仕事に優先的にありつけるわけだ。それでも社を代表して出ている葬祭係の、会議での活躍は期待された。
 我が社の冠婚葬祭名人は、榎本昌治さんといい、『パーティー・葬儀で男をあげる本』まで出版した人だ。その本の説明の中に、〝文壇冠婚葬祭係〟といわれた著者の、豊富な体験談を下敷きにした、人間くさいパーティー・葬儀のノウハウ満載の書とある。
 榎本さんが活躍したころ、冠婚葬祭の宴や通夜などで主に飲まれるアルコール飲料はウィスキーの水割りだった。これだと悪酔いしないというので好んで飲まれた。
 榎本さんの計算によると、ウィスキーのボトル一本から24杯の水割りが取れるそうだ。この作家が主役の会なら、案内状を出した人の何割が出席して、どんな会になり、だから、ウィスキーは何本を用意すればいいと計算して、それがピタリと当たるから不思議だった。
 作家の吉村昭は、愚痴めかして、私に言ったことがある。
「榎本さんはいい人だけど、ぼくの顔を見るたびに、お前の葬式までは俺がやってやるからなと言ってくれるんだがね……」
「そりゃあいいですねえ」
「だけど、あの人の方がぼくより年上なんだよ」

 いつの間にか、ワイン文化が日本でも浸透して、いまでは水割りでなく、ワインのグラスを片手に談笑する光景が当たり前となった。主催者は一本のワイン・ボトルからグラス何杯が取れるか計算しなくてはならない。
 ところで、その榎本さんは三島さんが主演した映画『からっ風野郎』の実現化に尽くしたフィクサーだったが、三島さんの代わりにスタント・マンを演じるほど、面長な外見は三島由紀夫さんによく似ていた。そのせいかどうか、榎本さんは三島さんに可愛がられ、三島さんが剣道を始めるときも力を尽くした。社の裏にあった剣道場は、床の弾力性が抜群に優れていて、素足で床を蹴っても足が痛むことのない、いい剣道場だったが、三島さんがそこでの稽古ができるようにもしてやったという。
 1970年11月25日に亡くなった三島さんの葬儀は、なぜか2ヵ月後の、翌年1971年1月24日に築地の本願寺で行われた。もう密葬も納骨も終わっていて、いわば本葬というべきものが、なぜこの日に行われたのか、どうもはっきりしないようだ。
 それはさておいて、その葬儀の打ち合わせ会議が開かれ、各社の冠婚葬祭担当、三島さんの担当編集者などが参加したようだ。ようだと書くのは、駆け出しの編集者はそんな席に顔を出せるものではないからだ。もちろん、我らが榎本さんも顔を出した。と、断定的に書けるのは、駆り出された私たちの係は本堂の中の場内整理の担当だったからだ。だから葬儀委員長の川端康成さんを遠くから眺めることができた。亡くなった三島さんは45歳、送る川端さんは73歳だった。
 このときの葬式に弔問客として来たのは、ファンと称する人たちを含めて、八千人を優に超したという。
 その人たちに、本堂の祭壇までキチンと列を作ってもらい、混乱の無いように、順次焼香をして、出口から出てもらうのが私たちの役目だった。
 寒い屋外で長い時間待たされた人たちは、焼香を急いで、前に前に進みたがる。それを祭壇の前の混み具合で、調整しながら列を進めていった。
 ある人が前に行きそうになったので、私は、手のひらでその人の腹を押さえて止まってもらった。
「少し待ってください」
 その人が、おとなしく私の指示に従ってくれた。
 その立ち止まった人の顔を見て、私は驚いた。
 赤尾びんさんだったのだ。
 若い人は知らないかもしれないが、赤尾敏さんは右翼の活動家で、一時は衆議院議員を務めた人でもある。そのころは、「大日本愛国党」の党首として、数寄屋橋や有楽町の駅頭などで、街宣車の上に乗って、ほぼ毎日のように辻説法をする変な爺さんという印象だった。
 陽にさらされて、辻説法をするせいだろう、削ったように皺を刻んだ面長な厳しい顔はひどく日に焼けていた。案外長生きをして、91歳で亡くなったが、そのときは72歳だったはずだ。
 赤尾敏さんは遠くに見える三島さん遺影にじっと目をやって、静かに佇んでいた。もう50年以上も前のこともあって、私が、三島由紀夫さんの葬儀のことで思い出すのは、赤尾敏さんの日焼けした顔だけだと言っていい。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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初出:P+D MAGAZINE(2023/02/07)

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