週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.119 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

『君が手にするはずだった黄金について』書影

『君が手にするはずだった黄金について』
小川 哲
新潮社

「会社説明会」が怖かった。小学4年生の時だったと思う。

 もちろん自分が参加したわけではなく、夕方のニュース番組で見たのだ。体育館のような広い空間にパイプ椅子が並び、そこに座る人たちは誰もがみな同じような姿形をしていて、誰一人として全く楽しそうではなかった。映像やインタビューを眺めるうちに、この得体の知れない儀式がいつか仕事に就くために必要なのだということが何となく分かった。分かった上で、これは無理だ、と思った。

 月日が流れ、インターネットを自由に使えるようになった頃、何かの折に「履歴書の志望動機の書き方」というページに行き着いた。そこには形だけの熱意が空回りしたような例文や、読み手に良い印象を与えるという語彙のリストらしきものが載っていた。どれだけの人がそういったものを活用するのかは分からないが、働くために嘘をつくのは嫌だな、と思った。

 さらに月日は流れ、エントリーシートを埋める機会も、あの恐ろしい会社説明会に赴くこともないまま、私は書店員になった。本が好きな人間にとって書店員とは、嘘をつかずになれる職業だったからだ。

 大学院生の「僕」は、恋人との結婚を意識したことから就職を考え、出版社のエントリーシートを取り寄せる。名前や学歴の欄を埋め、順調に書き進めていくが、ある質問で手が止まる。「あなたの人生を円グラフで表現してください」。

 本書の書き出しであるこの一文を前に、読者は頭の中でそれぞれの円グラフを描くことになるだろう。私もやはり本を閉じ、自分を表す円グラフを思い浮かべる。初めに家族と友人を据え、読書や音楽などの主な趣味や、仕事に関するものを配置し、より自分自身を表現するための要素をあれこれ並べた所で、ふと困惑する。幼少期の思い出に直結するものや、日々に癒しを与えてくれる存在であっても、『スーパーファミコン』や『レッサーパンダ』や『秋』を、家族や友人と並列することには違和感がある。

 行き詰まりの原因は「僕」によれば、この質問が人生という言葉の定義を欠いている事にあるという。

 この問いをきっかけに「僕」は、自分という人間に向き合っていく。円グラフに収まりきらない自分自身を、適切に表現できる言葉を探す。就職活動はフィクションだという恋人の助言を得て、「僕」はエントリーシートを白紙の小説に見立てる。そこに書き込む物語を創作しようとする。

 このような『プロローグ』から始まる本書は、6つの短編すべてを通して、作者自身を主人公としている。

 大震災の前日という〝平凡な一日〟の、欠落した記憶をめぐる『三月十日』。占い師を心の底から軽蔑する「僕」が、友人の妻を唆すインチキ占い師の元へ乗り込み、思いがけない洞察を得る『小説家の鏡』。偽物のロレックスを身に着けた漫画家との関わりから、嘘と創作について思惟する『偽物』。山本周五郎賞受賞後に書かれた『受賞エッセイ』。何者かになれることを願い必死にあがき続けた投資家の、哀れな顛末を描く表題作『君が手にするはずだった黄金について』。

『プロローグ』の中で「僕」の語りは現在と回想を行き来しながら、記述とその剰余に関する二人の哲学者の相対する主張を取り上げつつ、より本質的に思索を深めていく。いつしかその焦点は、就職活動のための創作から、文章を書くという行為そのものへと移り変わっていき、何度も重ねられた思索の末に「僕」はひとつの答えに辿り着く。

 そこには作家としての確信と、静かな歓喜がある。きっと「僕」はその瞬間、黄金を摑んだのだ。

 

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『ゲームの王国(上)』書影

『ゲームの王国(上・下)』
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