週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.103 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

目利き書店員のブックガイド 今週の担当 未来屋書店石巻店 恵比志奈緒さん

『わたしの香港』書影

『わたしの香港 消滅の瀬戸際で
カレン・チャン
訳/古屋 美登里
亜紀書房

 1997年7月1日、香港はイギリスから中国へと返還された。

 英中共同声明が規定した「一国二制度」は名ばかりで、保障されるはずの自治権などまやかしに過ぎず、中国による民主主義への締め上げは日増しに強まっていく。

 そしてデモが起きる。

 年齢も職業もさまざまに異なる人々、しかしともに香港に生きる人々が、掲げることさえ罪とされるスローガンを手に立ち上がり、街路を埋め尽くす。声をあげる。

 武装した警察が彼らを押し戻す。暴力でもって彼らを押さえつけようとする。催涙弾が、銃弾が、罪無きはずの人々に向けて放たれる。

 

 著者のカレン・チャン氏は香港在住のジャーナリストだ。1993年、香港に隣接する中国の街・深圳で生を受け、のちに一家で香港に移り住む。両親が離別したのも、香港という街が中国へ返還されたのも、著者がまだ4歳の頃だった。

 著者は大学を卒業した後、ジャーナリストとして香港でのデモやカルチャーについて取材し、母語の広東語ではなく英語で「書く」ことを選択した。本書はアメリカの出版社より発表されたデビュー作の邦訳にあたり、原書は『ワシントン・ポスト』紙の年間ベストブックに選出されている。

 

 本書で語られるのは主に著者の記憶、香港に生きることの苦悩と葛藤だ。

 母と弟がシンガポールへ去った後、代わりに育ててくれた祖母への思情。インターナショナル・スクールで過ごした多感な時期、やがて感じる同級生たちとの根底的な隔たり。18歳で家を出てから転々としたアパートメントでの生活。工業ビルを舞台にしたインディー音楽シーンへの傾倒。大学時代に患った鬱病と自殺念慮のこと。母語に対する裏切りへの罪悪感。自らも催涙スプレーを食らいながら参加したデモの光景。そして香港で生きている人々の声と痛みについて。

 

 香港のあらゆる通りに確かに息づく外面ではない文化と、そこに存在する風景や人々の営み、あるいは彼らが今まさに追いやられている窮地について語る筆致は、こうして書くことへの必然と切実さを孕んでいる。

 他者に歴史を奪い取られるような地において、語ることは消滅へのひとつの抵抗なのだ。

 

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