週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.16 三省堂書店成城店 大塚真祐子さん


あなたに安全な人

『あなたに安全な人』
木村紅美
河出書房新社

 ウイルスの感染拡大を抑止するため、人との身体的距離を空けることを推奨する「ソーシャル・ディスタンス」は、その耳慣れなさも相まって急速に定着したが、本来は親密性の程度を表す社会学用語であり、つながりは保つべきという意味で、「フィジカル・ディスタンシング」への言い換えをはかる動きがある。

〈このまま、けっして、顔は見せあわないで。互いの気配は、ときどき、幽霊がいるのかな、とでもびくっとさせるくらいに漂わせるのが理想です〉

 四十六歳の妙と三十三歳の忍は、依頼者と便利屋として出会い、やがて妙は忍に見張り役として、自分の家への同居を持ちかける。同居の際の「ルール」として妙が告げるこの台詞はそうなると、コロナ禍における完璧な距離感と言えるかもしれない。気配があれば幽霊でもよいのだ。

 二人はそれぞれ東京から追われるように帰郷し、過去には自分が殺したかもしれないと思う相手が存在する。

〈自分のせいではない〉〈わたしはだれも殺していない〉と妙は再三自分を正当化するが、一方で自然や環境に配慮しながら、過度に質素な暮らしを送る彼女の日常は贖罪そのものだ。自己弁護と自己否定を行き来する彼女は一体どう生きたいのか、物語に記される以外の姿がまったく浮かばない。いわば幽霊によって生かされる妙の前に、生身の肉体を持って現れたのが忍だ。

 家族から電気も水道もない蔵をあてがわれ生活する忍は、脳内にこだまする〈人殺し〉の声から逃れるため、自分の身体をライターで炙る。〈いつからか、そんなつもりじゃなかった、と振り払いたくなる出来事ばかりを自分は引き起こし、積み重なり、冬山を転がる雪玉のようにふくれあがり、落ちる速度が増してゆくのを止められない〉という忍の述懐には、彼の半生が痛烈に透けて見える。妙の家での暮らしはそれまでの生活よりはるかに恵まれているが、姿を見せず気配だけでいることを求められる忍の輪郭は、少しずつ薄まる。妙は忍に死んだ人たちの面影を重ねる。

 コロナ禍でなかったら、という気はしない。妙も忍もあらかじめ社会から弾かれた存在として出会い、それ以外の余地は見あたらない。他者と物理的に距離をとることを強いられる時代に、会わなくても、触れなくても、むすび合わなくてもよいことが理想となる関係が成り立つとしたら、そこにこれまで何かしらでごまかされてきた、この社会の問題の本質があるのではないだろうか。あなたであること、わたしであることの価値は喪われ、気配だけでよいということになったとして、そのとき人の手に残るものとは何か。

 

あわせて読みたい本

ケアの倫理とエンパワメント

『ケアの倫理とエンパワメント』
小川公代
講談社

〈この社会の問題の本質〉の一端が見えてくる一冊。個人の自律が優先される社会において、依存することや他者と関係性をむすぶことに焦点をあてる「ケア」の価値を、さまざまな文学作品をとおして豊かに説いた。

 

おすすめの小学館文庫

今読みたい太宰治私小説集

『今読みたい太宰治私小説集』
太宰 治
小学館文庫

 太宰の私小説といわれる五つの作品を集めた一冊。破滅的な人生に印象がひきずられがちだが、小説にはときおり不思議な明るさがある、この作品集からはとくに「生きている太宰」を感じる。太宰をあまり読んだことがない人に薦めたい。

(2021年11月5日)

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