週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.19 TSUTAYA中万々店 山中由貴さん

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残月記

『残月記』
小田雅久仁
双葉社

 小説は不思議な媒体だ。そこにある情景を一瞬で見ることはできない。読むという行為を通して文字が降り積もり、じぶんがそれを読むスピードで、光景やできごとが地面からにょきにょき生えてくる。3Dプリンタで使われる素材が「言葉」だったら、物語が脳内で組み立てられていく過程は、きっとそんなかんじだ。

 瞬時には理解できないからこそ、そこにある言葉を、時間をかけて確かめることができる。物語に流れる時間は一定ではなく、衝撃をうけて文章を二度読みすればできごとはループするし、いつまでだって足踏みしたまま進まないこともできる。

 

 という書き出しが思いうかんだのは、わたしがまぎれもなく『残月記』という本のなかから脱け出せず、囚われたままでいるせいだ。

 収録された三つの作品とも、ある一瞬から、月によって否応なく「別のじぶん」に変えられる人びとを書いている。比喩ではなく、これはそんな、日常が崩壊するファンタジーだ。その瞬間の描写に、わたしの時間は泥みたいに重くなり、心が引っこ抜けなくなってしまった。

 

「そして月がふりかえる」は、月に見つかったせいでパラレルワールドに放り出された男のはなし。

 まるで月の風景のような模様の石を手に入れた女の、奇妙な夢の物語、「月景石(げっけいせき)」。

 そして、月の光に心身が暴走してしまう感染症「月昴(げっこう)」が流行した、独裁国家・日本で、運命に翻弄される男女を描く表題作「残月記」は、まったくもう…圧巻だ。

 

 わたしは実際、いつもよりずいぶん長い時間をかけてこの短篇集を読み終えた。とくに「残月記」は、読んだことのない、展開の想像もつかない作品だ。3Dプリンタが出力を終えてはじめて、それがなんだったのかわかるような、そして理解できたが最後、一生忘れられないような、小田雅久仁にしか書けない異色のディストピアだった。

 三作とももちろん虚構ではあるけれど、そこで生きる人びとの切実な想いや、限界点を超えて感情のふちからついに溢れだす叫びは、けして偽物ではない。偽物ではないと、ただ、わかる。

 その真理の一片を手離したくなくて、わたしはこの本から出られなくなってしまった。

 

 小説が、実体のない言葉でつくりあげられたものだからこそ、手で触れられそうなほどの描写に出合ったとき、わたしたちの五感は敏感に反応する。そして、それに心を揺さぶられるわたしやあなたは、もう物語が形のないものとは思わなくなっている。 そしてこの『残月記』は、それをもっとずっと凝縮して絞り出した、究極のエキスのような小説だ。

 

 

あわせて読みたい本

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岩波文庫的  月の満ち欠け』
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岩波書店

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おすすめの小学館文庫

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『彼女の知らない空』
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小学館文庫

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(2021年11月26日)

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【著者インタビュー】橋本倫史『東京の古本屋』/コロナ禍に古本屋の店主たちは何を考えていたか克明に綴る