ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第1回
天才かよ、なのである。そんな神々の戯れみたいな何万リツイート漫画を、一日64時間ツイッターやっていれば何度も見ることになるのだ。
「こんな世界でやっていられるか! 俺は帰らせてもらう」と、推理小説なら次のページで惨殺死体で発見される奴みたいな捨て台詞を吐いて筆を三つ折りしたくなる。
このようにSNS漫画を見ると、自分の才能の枯渇を感じずにいられない。
最初からないものが枯れるわけがないのだが、ないはずの腕が痛む幻肢痛という症状が医学的にもあるのだから、存在しない才能がなくなる痛みだって感じて当たり前だろう。
ちなみに私は漫画家生活9年中、8年半は会社員をやりながら漫画家をやっていたのだが、半年前無事に、というか完全に不測の事態で無職になった。
当然だが、ない才能がなくなるより、あった固定給がなくなるほうが目に見えて痛い。
こうしてはいられないので、これから食いつなぐための方法を考えるのだが、大体面白い漫画の案より「外で働いた方が早い」という画期的アイディアの方が先に思いつく。
だが、それはもうできない。
何故なら漫画家には、漫画が得意でやっている人と、漫画が得意なわけではないが、それ以外はもっと不得意な人がおり、私は後者だからだ、漫画には向いていないが社会にはもっと向いていないのである。
だから出来るだけ社会に出ないで済むように、家から一歩も出ずにやれる今の仕事を何とか続けていきたいし、社会はこういう人間が外をウロウロしないように私の本を買うべきだと思う。
このようにこのエッセイは若者のサクセスストーリーではなく、売れないまま中堅になってしまった漫画家がこれからどう食いつなぐか考えていくものになると思うし、最終的にアニメ化ではなく「死ぬ」という結末になる可能性も五分ぐらいはある。
だが少年漫画でも最後主人公が死ぬという展開はあるのだから、漫画家が死んだっていいだろう。ただ、少年漫画の主人公は「餓死はしない」というだけだ。