ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第15回
いまや「エゴサーチャー」という
仕事になりつつある。
私は職業を聞かれたら「無職」と答えるが、それはフォーマルな場での肩書であり、もう少し砕けた場なら「他人の不幸ソムリエ」もしくは「エゴサーチャー」と答える。
他人の不幸ソムリエとは、その名の通り他人の不幸を正しく品評できる知識と舌を持ったプロフェッショナルである。
だが私は決して「他人の不幸大食漢」というわけではない。
他人の不幸ならなんでも食うし、腹が膨れれば良いというわけではないのだ。むしろ上質な不幸でなければ拒否反応で体が紫色に変色してしまう。
ここで言う「上質な不幸」というのは「自業自得」の純度が高いものである。
だが長年他人の不幸を観測していて顕著に感じるのは、この「完全に自業自得の不幸」が年々数を減らしているということだ。そろそろレッドデータブックに載ると思う。
片や、特に悪いことをしていないのにどうにもならないことで不幸になる人、もはや生まれた時から不幸な人の数は増える一方である。
これも長く続く不景気、広がる格差社会の影響だろう。このように「他人の不幸から世相が見える」のだ。
好景気になりさえすれば、調子をこいた浮ついた人間も増え、私も「ムニャムニャもう食べれないよ~」というデブの寝言が出るほど上質な他人の不幸を味わうことが出来るはずなのである。私が餓死しないためにも一刻も早く景気が上向いてほしい。
しかし「他人の不幸ソムリエ」というのはスポーツ選手と同じで、若い頃がピークなのだ。
若い頃は良くも悪くも「無敵感」というものがあり、その全盛は「中二病」と呼ばれる。
中二病の主な症状は、邪気眼に目覚めたり属性が「闇」になったりすることだと思われがちだが、最も厄介なのは「自分以外全員バカ」と思っているという点だ。
この症状は、邪気眼がふさがって、属性が「さそり座AB型」とかに戻っても、しばらく続く場合が多い。
そんな時にバカをやって不幸になった人間を見れば、遠慮なくバカにする、つまり他人の不幸を心置きなく味わえるのだ。
しかし年を取ると、どんな不幸を見ても「明日は我が身」な気がして若い頃ほどは楽しめないのである。
年を取ると、脂っぽいものが食えなくなるのと同じで、不幸が胃にもたれ出すのである。
つまり、他人の不幸は、老後の楽しみなんかにせず、若い頃に思う存分楽しんでおけ、ということだ。