ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第57回
フィクションよりも
リスキーなジャンルである。
また、自分の行動や発言が形として残ってしまう、というある意味デメリットがある。
人間なら、時間の経過とともに、考え方が変わるのは当たり前のことなのだが「この本ではこう言っていたではないか」とツッコミを受けることもある。
何故俺でさえ忘れている俺の発言を覚えているのか、俺のことを愛しているのか?と思うが、そう言ってくるのは大体こちらのことを嫌いな人なので不思議である。
ただ、無から生み出さなければならないフィクションと違って、エッセイは自分に起こった出来事、というとっかかりがあるだけ描きやすかったりもする。
だが、起こったことをそのまま描けば面白いというわけでもない。それをやると逆に有から虚無を生み出すことになる。
面白いエッセイを描く人というのは、面白い出来事に次々遭遇しているというわけではなく、何でもないことを面白く描くスキルがあるか、自ら面白い出来事を探しに行っているのであり、時には取材も要する。
つまり、エッセイはフィクションより楽ということはなく、再三言うがリスクも大きい、
だが私はエッセイをやっていて良かったと思うことの方が多い。
私の人生はドブに落ちた便所紙ロールのようにどれだけ巻いても白い部分が出て来ず、拭いたら逆にケツが汚れるレベルでこれと言ってあまり良い部分がないのだが、ろくでもない出来事でもエッセイという物笑いの種として発表することで、嫌な思い出も下水へ成仏させることができるのだ。
つまりエッセイを描くというのは「供養」でもある。
読まされる方は何故お前の葬式に付き合わなければいけないのかと思うかもしれないが、途中で寝たり帰ったり、故人の悪口をでかい声で言ったり、木魚を叩く坊主の頭でビーマニをしてもよい葬式なので、せっかくなので楽しんでいただければと思う。
参列者が面白がってくれるというのが、何よりの供養なのだ。
そんなわけでGFS学館から出た、エッセイ漫画の方を宜しく頼む。
ただ、そこに描かれているのは今現在の私の話なので、数年後違うことを言っていてもツッコまないでほしい
ツッコんでもいいが、その時は俺のことを愛しているのだな、と認定する。
(つづく)