ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第76回
前澤友作の誕生を
1970年ごろ
予言した漫画がある
「人間が月にいった みんな銭のおかげや」
お前、前澤友作のこと好きすぎるやろ、と思ったかもしれない。確かに私が友作のことを好きすぎる感は否めない。
先日、月から帰還し、宇宙生活で筋力が衰えていたであろう友作のワキを支えるおじさんたちに「そこ代われ」と思ったことは記憶に新しい。
私が「推しの壁のシミ」など、無機物以外にポジションチェンジを要求するのは非常に稀なことである。
また、先の熱愛報道には当然、俺以外の男と結婚したのかニキの顔になった。
友作はその相手で大丈夫なのだろうか、金目当てなのではないか、と思ったが、もはや友作に対し「金目当てではない」というのは逆に侮辱な気がしてきた。
それを言うなら「内面が好き」とか言う連中だって「所詮こいつの性格目当て」ではないか。顔も体も性格も本人の一部分には変わりないはずなのに、内面が好きと言ったら褒められ、顔が好きと言ったらタンを吐かれるというのは納得がいかない。
それに人間というのは自分の自信があるところを褒めてもらえると嬉しいものであり、それが努力して手に入れたものなら尚更だ。
友作はおそらく相当金に自信ニキだし、それは友作が一代で築いたものである。
つまり友作の金を褒めないというのは、その日のためにダイエットに励み、美容院に行き、精一杯のおしゃれとメイクをしてきた女の容姿に一切触れないのと同レベルの無神経である。
金目当ての奴は金がなくなったら去っていく、というが、顔だって年をとれば全てのパーツが「線」で表現されるようになるし、体も重力に無抵抗主義になる。
性格は不変と思うかもしれないが「良い性格」ほどコスパが悪いのだ。
「他人への思いやりや気配り」というメドローア級の極大呪文が体力と気力消費ゼロで唱えられるわけがないだろう。
加齢とともにそれを唱えるのがしんどくなり、性格が良かった人ほど老化による変化を嘆かれ「昔はよく気がつく人だったのに」と、文句を言われてしまうのである。
つまり、性格が死ぬまで変わらない人間というのは「死ぬまで何もいいところがなかった奴」以外滅多にいないのだ。
つまり人間というのは、全てが流動的なものであり、いつかは無に帰るものなのだ。ならばどこを愛したって良いだろう。