滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第3話 マネー・ア・ラ・モード①
裕福な育ちのイレーネが、「幸福は幻にすぎない」と言う。
誰にとっても悩ましい、第3話スタート!
第3話 マネー・ア・ラ・モード
「まさか、お金がありすぎて困るということはないでしょう」そう大概の人は言う。
別に、お金がないから言うわけでないけれど、お金があると、往々にしていろいろな問題を引き起こすことになる。周りを見てみると、お金があるばかりにしなくてもいい苦労を強いられた人たちが、けっこう、いる。お金は不幸を招く元凶かもしれないとさえ、イレーネや、エンリーコや、ミケーレ、ジェンナや、ディーンを見ると、思う。
イタリア人のイレーネは、元女優のブロンド美女で、ハーバードの博士号を持っていて、イタリア語とフランス語とスペイン語と英語のほかにギリシャ語ができて、敬虔(けいけん)なカトリックで、心がやさしくて、しかも裕福な家の出身で一生働かなくてもいい身分、という、これ以上恵まれようがないというほど恵まれた人だ。だから、ずうっと、イレーネは幸せの代名詞みたいな人なんだろうと思っていた。
イレーネは、その昔、ワシントンにいたときからの知り合いで、ジョージタウンにある教会のミサの後、ドーナッツを食べながら、教会のバックヤードでよく四方山話(よもやまばなし)を交わした。優雅な社交術のおかげで知り合いもたくさんいて、ミサの後のコーヒータイムやフォーリン・プレスセンターのパーティやなんかでなごやかに談笑している姿を見て、ああ、こんなふうにしてしゃべるんだなあ、とか、そうか、こんなふうにして笑うんだなあ、とか、感心して眺めていたのを覚えている。
確か、フォーリン・プレスセンターのクリスマスのパーティだったと思う、イレーネとイレーネの友人とソファーに座って食べながらおしゃべりしていたときのことだ、ビュッフェに行こうと立ち上がったイレーネを追うようにしてイレーネの友人が立ち上がると、イレーネは「キミコをひとりにしないよう、順番に行きましょう」と言って、1人ずつビュッフェにオードブルを取りに行く配慮をしたことがあった。わたしとしては少しぐらい席をはずしてくれたって別にどうということもなかったのだけれど、本当によく気がつく人だなあと感心したのを覚えている。
長い付き合いだから、ずうっとイレーネのことは知っているつもりでいたけれど、ローマへ行って彼女のマンションに泊めてもらい、南イタリアへ行って彼女の実家に泊めてもらい、彼女と朝ごはんを食べ、昼ごはんを食べ、夜ごはんを食べ、彼女の家族に会い、彼女の友達に会い、彼女の元彼に会い、彼女と朝から晩までいっしょにいていろんなことを語り合っているうちに、それまでイレーネのことをちっとも知らなかったことを知った。イレーネには悪いけれど、これだけ長い付き合いで、これだけ人生について、人間について、信仰について、語り合ってきて、それでも心と心がひたひたと通じ合う思いがしたことがない理由も、イレーネと24時間ともに過ごしてわかったし、いくら美人で聡明(そうめい)で心やさしくてお金持ちであっても、幸せとは限らないことも、わかった。
イレーネは、
「幸福とは、」
と言った。
「幻にすぎないのよ」
イレーネの実家は、入り江を見下ろす南イタリアのある都市の丘陵にある。イレーネによると、お母さんは、芸術家のパトロンをしていた由緒ある家の出身だそうだ。なんでもその名を聞くとすぐに貴族だということがわかるような苗字(みょうじ)で、お母さんは、庶民出身のお父さんと結婚して庶民の苗字を受け継いだとき、名乗るのを戸惑うほど恥ずかしかったそうだ。イレーネ自身も、お母さんの苗字を受け継げなかったことを残念がっている。本を出版することがあれば、お母さんの名前を使おうと真剣に考えているぐらいだから、よくわからないけれど、立派な苗字というのはイレーネにとっては切実な問題なのだろう。
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