滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 第7話 カゲロウの口①
かすめて出し抜くようなジョークに慣れるには時間がかかる。
まだミスター・アロンソンがバスに乗れたころのことだ、病院へ行くミスター・アロンソンに付き添ってバスに乗ったことがあった。隣の席が空いたのでずれて座って、ミスター・アロンソンにもずれるように促した。そうすれば、前に立っている人がミスター・アロンソンの向こう側にいる連れ合いと並んで座れると思ったのだ。が、ミスター・アロンソンはガンとして動かなかった。礼を言って座ろうとした人は、ミスター・アロンソンが動こうとしないものだから、連れ合いの隣に座れない。ミスター・アロンソンの口元が笑っている。ミスター・アロンソンとわたしの間の席は空いたままだ。意地が悪いな、と思う。その意地悪さに、周囲にも、ちょっと険悪な空気が漂う。
バスを降りると、「あんなことはしなくてもいいんだ」とミスター・アロンソンは楽しそうに言う。
「でも、席を譲っても、何も損することもないのに」
「でも、席を譲らなければならない理由なんか何もない」
これがミスター・アロンソン独自のユーモアなのだ。
最初は、「偏屈じじい」と心の中で思ったこともあるけれど、だんだんミスター・アロンソンのブラック・ユーモアに慣れて、聞き流せるようになった。何でも物事には慣れが肝心だ。何か提案しても、はなから拒否されるのがわかっているから、それもやめた。
ミスター・アロンソンは、料理はしても、掃除はしないから、住みかはもうゴミためみたいで、バスルームのシンクはピンクのカビが、キッチンのシンクは黒い水アカがへばりつき、床はたぶんこのアパートに移って3年間というもの一度も掃いたことも拭いたこともないのだろうと思う、ホコリと泥とゴミが蓄積している。
何をするのも面倒くさいらしい。「歯医者に電話をかけてアポを取らんと」と言いながら、4か月たってしまい、やっとアポを入れようとしたときには、取れるのがひと月先になって焦る。「歯医者のアポは早めに言わないと、取れないって言ったでしょう」と言うと、何やらふにゃふにゃよくわからないことを言う。
眼医者も、「もう少し暖かくなってから」、「暑さが過ぎてから」と言っているうちに、冬になってしまった。そして、やっと確保したアポも、その日は寒かったので、キャンセルした。
そうやって外へ出るのを面倒くさがりながらも、「目的がないと外へ出ないから」と言って、アボカドを買いに、あるいは、キュウリを買いに、2ブロック半先のスーパーへ行く。わたしが買い物を代行することもできるのだけれど、「いや、外へ出る用事がなくなるからいい」とミスター・アロンソンは言う。だから、わたしは、食料品の買出しはしない。
ミスター・アロンソンを見ていると、何もすることがないというのは辛(つら)いことだなあ、とつくづく思う。ひょっとしたら、「することがない」というのが人生で一番辛いことかもしれない。若いときに遺産が転がり込んだブライアンやドミニクを見るにつけ、それから、裕福な家庭出身のイレーネやミケーレを見るにつけ、そう思う。しなければならないことも行かなければならないところもない贅沢(ぜいたく)を持て余して、方向も、目的も、果てには、生きる意味も見失ってしまって、苦しそうだから。天国だって、することがなくて退屈だったら地獄だな、とも思う。
- 1
- 2