椹野道流の英国つれづれ 第2回
「大丈夫?」
この〝Are you all right?〟、何か問題を抱えていそうな人に声をかけるとき、現地の人が決まって口にするので、留学中、もしかしたらいちばん先に覚えたフレーズかもしれません。
もし大丈夫なら、 〝Yes, I’m okay. Thank you〟と言えばいいし、ちょっとだけ助けてくれたら嬉しいんだけど……というニュアンスのときは、〝Yeah……but〟と「うーんだいじょうぶ……なんだけどぉ」という口調と表情で返すことが多かったです。
そうすると、相手も〝But?〟、「でも(何かあるのね)?」と手を差し伸べやすい……と、私の語学学校の担任が教えてくれたので。
このときも、「何かあるのね? どうしたの?」と優しく応じてもらえたので、私は、「今日のお昼によそのお家を訪ねるんだけど、何か持っていったほうがいいですよね?」と訊いてみました。
無意識に両手で菓子箱のシルエットを作る私を見て、何を想定しているのか察したのでしょう。
女主人は、「あー、そうねえ。お相手はどんな方? お歳とか、性別とか」と具体的な質問を投げかけてきます。
「ええと、たぶん、お年寄り、かな。ご夫婦です」
「そう、じゃあ、きっとお茶の習慣があると思うから、お茶菓子とか、あとはそうね、断然、お花がいいわよ」
「お花!」
「そう。本当はお庭で摘んだ花がいいけど、あなたはそうはいかないから、お花屋さんで買っていくといいんじゃない? 駅へ向かう道すがらにあるわ」
「そうなんだ! ありがとうございます」
「楽しいひとときになるといいわね」
そんな素敵な言葉を残して、女主人は去っていきました。
書き起こしてみると何のことはない会話ですが、私にとっては、まだカタコトの英語を駆使して必死のやり取りなので、これだけで既に疲労困憊です。
これで、初対面の人のお宅訪問などできるのか!?
不安は募りますが、とにかくもうアポイントメントを取ってしまったんだから、仕方がない。行こう。行くぞ。
お菓子のことはまだよくわからないから、お土産は、花にしよう。
そう決めて、いったん部屋に戻ろうとした私を、リビングルームへ行ったはずの女主人が呼び止めました。
「ところで、そのお宅はどこなの? 行き方はわかってる?」
語学学校と提携しているだけあって、この地に不慣れな学生が引き起こす様々な珍事に慣れっこだったのかもしれません。
親切にそんなことまで訊いてくれたのが本当に嬉しくて、私は行き先の住所を書き付けたメモを見せました。
「ここです」
「ああ、だったらバスでお行きなさい。たぶんここから出ていたと思うわ。まだこの辺りに慣れてないんだから、遅くならないようにお帰りなさいね」
公衆電話のすぐ傍に貼ってあるブライトンの地図を指さして、バス乗り場まで教えてくれて、彼女は今度こそスタスタとリビングルームへと入っていきました。
よーし、なんだかいける気がしてきましたよ!
私はなんだかとても前向きな気持ちで、足取りも軽く、自分の部屋へ駆け戻りました。
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。