連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第5話 井伏鱒二からの叱声

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の第5回目です。「井伏鱒二」といえば、『山椒魚』、『黒い雨』などの名作を生んだことで広く知られています。当時のエピソードを振り返ってみましょう。

担当編集者だけが知っている、井伏鱒二の意外な一面とは……?

多くの名作を残し、『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞した作家・井伏鱒二。庶民的なペーソスとユーモアの中に鋭い風刺を込めた独特な作風を持ちます。担当編集者だけが知るとっておきのエピソードについて、宮田昭宏氏が語ります。


 私は1974年に、小説雑誌と呼ばれた「小説現代」編集部から、純文学の極北とまで呼ばれた「群像」編集部に異動になった。ずっと作品を愛読してきたので、これを機会に、是非とも井伏鱒二さんの謦咳けいがいに接したいと思った。
 「群像」で、私が担当した庄野潤三さんや小沼丹さんや三浦哲郎さんたちが、井伏さんを師として敬愛することひとかたならぬものであることを知ったが、しかし、私自身が井伏さんにお目にかかる機会がないまま、時は過ぎていった。
 そのころ、吉祥寺と三鷹の間にあった小沼丹さんのお宅に、ふたつきか、みつきに一度くらい伺って、屋根裏部屋みたいなところで将棋を何番か指したあと、階下へ降りて、奥方の手料理をいただき、そのあと吉祥寺まで足を伸ばして古いカウンター・バーでスコッチを飲んだりした。
 小沼さんのお宅の居間は畳敷きの広い部屋で、瀟洒な造りの床の間には大きな馬の埴輪が置いてあって、壁には品のよい色調の赤い和紙の掛け軸が掛けてあった。埴輪のことは「埴輪の馬」という作品に詳しい。
 掛け軸の字は井伏さんが書かれたもので、『厄除け詩集』に収録されている「なだれ」という詩である。「たばこをすふやうな格好で、安閑と雪崩の雪の上に一匹の熊」がいるという、滑稽でもあるし、怖いようでもある詩であって、得も言われぬ味わいの字で書かれていた。 

 ある夜、将棋を終えて、いつもの通り奥方の手料理を楽しんでいると、小沼さんが、
「三鷹に感じのいい店を見つけてね」
 と言われた。
「まあ、小料理屋というか、居酒屋なんだが、あとで行ってみよう」
 奥方の料理は趣向が凝らしてあって、次に何が出てくるか楽しみにしている私には、このあと小料理屋だなんて、ずいぶん気の早い話だなと思われた。
 そのうち、奥方が緊張した面持ちで部屋に入ってきて、電話を取り次いだ。
「井伏先生からお電話ですよ」
 小沼さんは、電話のある部屋に行って、すぐに戻ってこられた。
「井伏さんがね、さっき話した三鷹の居酒屋に来てらっしゃるそうなんだ」
「はあ」
「おいでと言われてね。君が来ていて、飲み始めたところだと言ったら、一緒でいいと言われた。どうだい?」
 あの井伏さんが飲んでらっしゃる席に伺えるんだ、「どうだい」も「こうだい」もない。
「お供します」
 文字通りおっとり刀で駆け込んだ居酒屋の正面の小上がりに、井伏さんが座っておられた。多分、将棋の観戦記者たちだと思ったが、そんな雰囲気の人たちが3人ほど井伏さんを囲んでいた。着流しの和服を着ていた小沼さんは、下駄を脱いで小上がりに座った。
 それから、井伏さんに紹介するため私を指して、
「群像の宮田君です。好青年で……」
 と言いかけたとき、井伏さんの口から、私に向かって激しい叱声が飛んだのである。
「君ね。群像のオオクボが早稲田文学の有望な新人をどれくらい駄目にしたか。どうなんだっ?」
 井伏さんの声は甲高く響いて、その場の人たちは凍りついたように固まってしまっていた。脱ぎかけた靴をそのまま、私も凍りついた。 
「群像」のオオクボというのは、大久保房男さんのことで、ずいぶん前の「群像」編集長で、とくに第三の新人たちに「鬼」と恐れられた名物編集者である。
 正面に座っている井伏さんはみじろぎもせず黙ったままだ。
「群像」というキー・ワードに反応して、思わず大きな声になってしまい、絶大なる効果を引き起こしたことに、井伏さんご自身も凍りついてしまったのかもしれない。
 この雰囲気を溶かすにはどうしたらいいのだろう。
 頼りの小沼さんは一番衝撃を受けているようだ。
「あのう、先生。オオクボが『群像』におりましたのは、私が入社する前でありまして、今ではもう、『群像』とは関係ないところに……」
 私はオソルオソル口を開いた。
 井伏さんは、ふーんという顔になって、
「アレは三田文学でね。早稲田文学の新人を……」
 そう言う井伏さんの声は普通の調子に戻っていた。
 なるほど、井伏さんは早稲田大学仏文科を中退しているが、その後、「早稲田文学」とのつき合いは親密であって、小沼さんも早稲田大学の英文学の教授だったこともあるのだ。
「まあ、あがんなさい」
 井伏さんは私にそう言ってから、小沼さんに向かって、
「ここは君が推薦の店だから、今日は出張ってきたんだ」
 と続けた。
 そのあと、「群像」云々という話はもう出ることはなく、和やかな宴席になったのだが、どういう話が続いたのか、まったく記憶にない。

 しばらくして、会社で大久保さんと話す機会があった。
「おかげで酷い目に遭いましたよ」
 私がそう言うと、大久保さんは、ニヤリとして、
「ウンプテンプの祟りだな」
 と言った。
「……?」
「井伏さんが原稿に運賦天賦と書いたことがあって、正しくは運否天賦と書くと、ウチの校閲部が直した」
「はあ」
「それで、三島(由紀夫)さんに井伏さんが、講談社はひとの原稿を勝手に直すと言いつけたんだな」
「…………」
「僕は、その話を三島さんに聞いて、しまったと思ってね。ところが、調べてみたら、運否天賦と書いて、うんぷてんぷと読むんだ。校閲は正しく直したんだよ」
「なるほど」
「それですぐ井伏さんに電話をして、最近の小説家はモノを知らんので困る。校閲が正しく直してやったのに、逆恨みして言いふらすなんて飛んでもないと言ってやったんだ」
 この辺りが、大久保さんが「鬼」と呼ばれる理由の一つかも知れない。井伏さんに向かって、「モノを知らん」と言える編集者は、大久保さん以外いないはずだ。
 なるほど、井伏さんが「群像」と聞いて、大久保さんの名を思い、目の前にいる「群像」編集部の若造を思わず怒鳴ってしまったという回路なんだと得心がいき、私はやはり可笑しかったし、いまでも井伏さんから怒鳴られたことは記念すべき事件だと思っている。
 私はこの話を懐かしく思って書いているが、井伏鱒二さんも小沼丹さんも三島由紀夫さんも、そして大久保房男さんもすでに亡くなっているのが寂しい。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/12/22)

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