高見 浩『ワシントン・ブラック』
気球とタコとBLM
以前、北極に鯨を追う捕鯨船が主役の冒険小説を手がけたことがあった。神秘的な北極の自然描写が素晴らしくて、その訳出に苦労させられたのだが、まさかそれと同じ苦労をこの小説『ワシントン・ブラック』でさせられることになろうとは当初思いもしなかった。というのも、この小説、冒頭の舞台は北極の真反対に近い熱帯、西インド諸島の島であり、主人公はそこの苛酷な大農園で働く黒人奴隷の少年なのだから。
だが、この少年ワッシュは、やがてこの農園から脱出して――それも気球(!)に乗って――アメリカを目指し、そこからまぎれもなく北極にまで赴くのである。その意味では一種破天荒な冒険小説と言っていいだろう。
この破天荒ぶりは最後まで貫かれていて、憑かれたように〝自分探し〟の旅をやめないワッシュ少年の足どりは、その後イギリスからオランダへ、さらにはアフリカにまで及ぶのだ。しかも、その過程で自分の描画の才能に目覚め、自然科学、とりわけ海洋生物への興味をかきたてられたワッシュは、ついにはなんとイギリス初の水族館の創設にまで突き進んでしまう。そこまで読み進んで初めて、ハードカヴァーの原本の表紙に真紅の色鮮やかな八本足のタコの絵が描かれている理由が呑み込めたのだった!
ページを繰るのがもどかしくなるような面白い本、とはまさしくこういう小説を指すのだろう。
だが、単にストーリー展開の奇抜さだけが取り柄の作品だったなら、世界的な文学賞の候補に推されるはずがあるまい。二〇一八年度ブッカー賞の最終候補にまで残ったこの作品『ワシントン・ブラック』の真骨頂は、ワッシュの波乱に満ちた冒険の底に、人種の壁を越えた真の平等、真の自由とは何か、という、現代のBLM(Black Lives Matter)運動にも通じる骨太なテーマが一貫している点にある。そのテーマが上すべりすることなく読者の胸に響いてくるのは、ワッシュをめぐる多様な登場人物たちのだれもが単なる操り人形ではなく、善悪それぞれに赤い血の通った人間だからだろう。
ワッシュの冒険に胸躍らせながら、混迷する現代の、いまなお熱くたぎる深淵をも覗き込むことになる読書体験。これほどに興趣豊かな本にはめったにお目にかかれない、と胸を張って言える一冊である。
高見 浩(たかみ・ひろし)
東京生まれ。出版社勤務を経て翻訳家に。主な訳書に『ヘミングウェイ全短編』『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』(E・ヘミングウェイ)、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『カリ・モーラ』(T・ハリス)、『カタツムリが食べる音』(E・T・ベイリー)、『眺めのいい部屋売ります』(J・シメント)、『北氷洋』(I・マグワイア)など。著書に『ヘミングウェイの源流を求めて』がある。