前川ほまれさん『臨床のスピカ』*PickUPインタビュー*
そこにDI犬がいてくれたら
病院で患者に寄り添うDI犬という存在
昨年、ヤングケアラーの高校生たちの青春とその後の人生を描いた『藍色時刻の君たちは』で山田風太郎賞を受賞した前川ほまれさん。
「受賞については、謙遜ではなくて本当に〝まさか〟という感じで……。幸運でした。ただ、ちょうどその頃、今回の新刊を書くのに必死だったので、あまり気にしてはいられなかったというか」
今回の新刊というのが、『臨床のスピカ』である。テーマは患者の治療計画の中に動物を介在させる、動物介在療法だ。
東京にある病院を舞台に描かれるのは、DI犬と呼ばれる犬のスピカと患者たちと、犬の責任者であるハンドラーの女性の物語。ちなみにDIとは〈Dog Intervention〉の略で、直訳すると〈犬の介入〉。そんな設定を聞くと、現役の看護師でもある前川さんが以前から興味を持っていた題材かと思ってしまうが、当初は前川さん自身も詳しいわけではなかったという。
「最初、編集者さんからアニマルセラピーについて何か書いてみませんかという提案をいただいたんです。自分も犬や猫を飼ったことはありますが、セラピーで動物に接したことはなくて。それで調べてみたら、アニマルセラピーという言葉自体は和製英語なんですが、動物介在活動(AAA)と動物介在療法(AAT)というものがあると知り、臨床で活躍している犬について書いてみようかなと思いました」
そこからいろいろな資料や動画にあたっていった。DI犬を商標登録している社会福祉法人 日本介助犬協会の理事長にも話を聞き、アドバイスをもらった。
国内で実際にDI犬を導入している病院はまだまだ少ないのが現実だそうだ。
「DI犬に対しては公的な補助金はなく、ほぼすべてを病院自体が捻出したり寄付金を募ったりしている。患者さんのためにやっていることだけれど、現実的には大変だと聞きます」
安易なハートフルな物語にはしたくなかった
執筆にあたって、安易な〝動物と人間のハートフルな物語〟にはしたくなかった、という。
「ある種の現実を描きながら、登場人物が徐々に変わっていく様子を書きたいと思いました。自分も臨床で働いているので、経験したことや見聞きしたことを思い出しながら、そこにスピカがいてくれたら、という気持ちで書きました」
東京、世田谷区にある時津風病院。そこにはDI犬と呼ばれる、ゴールデン・レトリバーのスピカがいる。犬の責任者であるハンドラーの凪川遥は、以前はこの病院で看護師として働いていたこともある女性だ。
第1章「2023年5月 白い生き物」では、横紋筋肉腫と診断された五歳児の沙奈とその両親、スピカと凪川との交流が描かれていく。長い入院生活の閉塞感と辛い治療でストレスをため込んだ少女が、スピカと遊ぶ時間は活き活きとしている姿が印象的。
その後も、各章で異なる患者とその家族が登場する。患者の症例もさまざまで、たとえば第2章では不潔恐怖の強迫性障害を抱えて入院している中学生の少女が主人公。彼女はスピカに見守られながら、辛いERP(曝露反応妨害法)と呼ばれる療法に臨むが……。
「不潔恐怖で生活が成り立たなくて入院する方はいます。そういう方たちは、本当に汚れているものが嫌だというより、実際には汚れていないものでも、どうしても汚いと感じてしまって消毒や手洗いがやめられなくなる。本人も過剰に反応していると自覚しているんですが、強迫観念でやめられないんですね。たとえばコロナ禍の時に、ウィルスの存在に反応して手洗いをやめられなくなった子供もいました」
第3章では、長年うつ病を患っていた父親の死後、生前の父とスピカの交流を思い出す青年が主人公だ。
「この章では患者さんだけでなく、支援者側から見た、人とスピカとの距離を書こうと思いました。これはある意味ヤングケアラーの話にもなっていますが、『藍色時刻の君たちは』と同じ時期に書いていたので、ひっぱられたのかもしれません(笑)」
3章までのエピソードだけでも、入院患者が抱える病気や事情もさまざまだということがよく分かる。また、スピカはあくまでも患者と一緒に遊んだり散歩をしたり、撫でられたりするだけだ。それでもつぶらな瞳で患者を見つめるスピカの存在に、読んでいるこちらの心もほぐれてくる。
「もちろん犬は医療行為ができません。でも、寄り添うことはできる。資料を見ていると、実際にDI犬の存在によって入院中に救われたり、気分が変わったりする患者さんはいらっしゃる。治療の副作用で辛い思いをしている時、犬の体温を感じるだけでだいぶリラックスできるのではないかと思うし、犬と真っ直ぐ目と目をあわせることは安心が得られる効果があるのかな、とも感じました。動物介在療法にはケアの本質みたいなものがあるように思います」
後半にはDI犬のトレーニングの様子も描かれるが、決して厳しいものではない。また、人と遊ぶことが好きな犬、医療機器が発する音や薬剤などの臭いに動じない、良い意味で鈍感な性格の犬が適しているなど、具体的なことが分かって興味深い。あくまでも犬には無理させないスタンスだ。
「作中にも書きましたが、ハンドラーにとっていちばん大事なことは、DI犬を守ること。人間の都合のいいように犬を操るのではなく、あくまでもドッグファーストで一緒に行動をする。やはり犬も生き物ですし、動物愛護の観点からも、犬が遊び感覚で参加していることはしっかり書いておきたかった」
DI犬を守るハンドラーのストーリー
スピカと患者が触れ合う最初の三つのエピソードは、すべて2023年が舞台。その間に、2012年から始まる、凪川遥がハンドラーとなる前からの物語が挿入されていく。
「もともとはDI犬と患者たちの交流を描く短篇のつもりだったんです。でも書いていくうちに、もう少し広げられそうだなと思って。ハンドラーについても掘り下げようと決めて、そこからすでに書いた章も調整していきました。自分がこの話で何を書きたいのか考えた時、人と人との距離感や、スピカという動物と人との距離感を書きたいのかな、と思ったんです。それで、ハンドラーも実は母親と確執があり、心地いい距離を見つけられずにいる人物として書いていきました。それと、もともと犬好きという人間より、流れに巻き込まれていく人にしたかった」
というように、凪川は自分から進んでハンドラーを志望したわけではない。DI犬の導入に尽力したのは、彼女が看護師として時津風病院に就職した時の同期、武智詩織だ。現在も被災犬を引き取って暮らしている武智には、少女時代にDI犬と接した経験があったのだ。だが、DI犬の導入に際して立ちはだかった壁がふたつある。ひとつは、コロナ禍だ。
「やはりあの時期、医療従事者は大変だったんです。ピークの時はみなさんかなり疲弊していました。自分はコロナ病棟に勤めていたわけではないのですが、それでも罹患した患者と接することもあり、防護服を着て、人と距離をとって働いていました。その時に、やはり人の温もりの重要性を改めて実感したというか。そうしたことも、この小説を書きたいと思った理由かもしれません」
時津風病院でもコロナ禍で過酷な状況となり、いったんDI犬導入の話は流れてしまう。そしてもうひとつの壁というのが、まだ三十代の武智が若年性パーキンソン病と診断されたことだ。治療中の疾患のある者がハンドラーを務めるのは難しいとされているため、それで代わりに凪川がハンドラーの訓練を受けることとなったのだ。
第4章は、武智の物語だ。若年性パーキンソン病の患者の日常と、リアルな感覚がそこには書かれていて、はっとさせられる箇所がいくつもある。
「若い方でパーキンソン病になる方は一定数います。直接寿命に関わる病ではありませんが、現時点では根治治療法がない病気なので、薬を飲まないとできることがどんどん減っていく。人によって違いがありますが、なかには薬を飲まないと起き上がれなくなる人もいます。当事者はかなりきついだろうと思います」
人のケアにあたる人たちだって、いつケアを必要とする側になるか分からない、という現実を改めて実感させる。
「人と人との距離」と「痛みの中のきらめき」
「凪川がハンドラーを引き受けて訓練所に赴いたのは、コロナ禍の勤務で疲弊して一時的な逃避の気持ちがあったと思います。そういう、当たり前の辛さもニュートラルに書きたいと思っていました。医療従事者だからどうということではなく、一人の人間として素直に書きました」
最終章はそんな凪川が主人公だ。実は彼女の母親には自閉スペクトラム症と軽度知的障害があり、凪川は伯父に面倒を見てもらって育ってきた。そんな彼女の母に対する屈折した思いと、その変化が描かれていく。
「人と人との距離という裏テーマが強く反映された章になりました。近くにいて仲がいいだけが家族じゃないし、距離が遠くても心地いい関係があってもいいはず。子供が小さい時期は距離が遠すぎると親の放任問題になりますが、ある程度の年齢になったら、子供も自分は自分と考えて、家族であっても別々に生きて、お互いに輝けるところで輝けたらいいのではないかという気持ちがあります。だから主人公にも、母親とのいい距離感みたいなものを見つけてもらえたら、と思いながら書きました」
犬のスピカを中心に置きながら、さまざまな人間模様、人生模様を描ききった本作。
「最近、自分の既刊の小説を見ていて思うのは、自分が書きたいのは痛みについての物語なんだな、ということです。身体の痛みも心の痛みも含めた、いろんな痛みですね。どうやって痛みから抜け出すかが書きたいというよりは、痛みを感じている登場人物がどう動くのかとか、痛みと向き合いながらも彼らが見せるきらめきみたいなものを書いていきたいです」
現在は「小説 野性時代」でジェンダー外来の話を不定期連載中。こちらの刊行も楽しみに待ちたい。
前川ほまれ(まえかわ・ほまれ)
1986年生まれ、宮城県出身。看護師として働くかたわら小説を書き始め、2017年『跡を消す 特殊清掃専門会社デッドモーニング』で第7回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。23年刊行『藍色時刻の君たちは』で第14回山田風太郎賞を受賞。その他の著書に『シークレット・ペイン 夜去医療刑務所・南病舎』『セゾン・サンカンシオン』がある。