下村敦史さん 『黙過』
二〇一四年に『闇に香る嘘』で第六〇回江戸川乱歩賞を受賞し、年平均三冊のハイペースで新作を世に送り出してきた下村敦史が、最新書き下ろし作『黙過』で医療ミステリに初挑戦した。生命倫理を共通のテーマに据えた全五篇には「デビュー作超え」のどんでん返しが仕掛けられていた。
四月某日、下村敦史は自身のツイッターで『黙過』が完成したことを明かした。〈「闇に香る嘘」でデビューしてから約3年半。11作目。初めて言います。初めて言えます。ようやくです。「闇に香る嘘」を超える"衝撃のどんでん返し"をどうか味わってください!!〉〈僕の最高傑作です!〉
だが、着想を得た段階では、特別な作品になるとは思いもしていなかったという。回想は、デビュー前まで遡る。
「デビュー前にジェームス・W・ヤングの古典的名著『アイデアのつくり方』を読んで、"アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせである"という言葉に感銘を受けました。その発想法を実践したのが、『闇に香る嘘』なんです。中国残留孤児という社会的な問題と、目の見えない主人公の家族にまつわる問題、まったく関係ないと思われる二つの問題をくっつけることで、新たな化学反応を起こすことができました」
主人公の家族にまつわる問題とは、臓器移植だった。『闇に香る嘘』でも少なくないページ数を割いたが、この題材はまだ掘り下げる余地がある、という感触を得ていた。ここから新たな「謎」が生み出せるのではないか、とミステリ作家としての直感が働いたのだ。同じ感覚は他にもあった。
「『闇に香る嘘』の主人公は農家の出身だったので、農家らしさを出すために、例えば豚を飼うのはどうだろうと思って資料を調べていました。結局その設定は使わなかったんですが、養豚場の仕事に興味が湧きましたし、ここを舞台にしたミステリを書いたら面白いかもなぁとネタのストックに置いておいたんです」
しばらく時間が経った頃、初めて一緒に仕事をすることになった編集者から、作品のアイデアを聞く機会があった。その中のひとつ、研究者の論文審査や助成金申請をサポートする「学術調査官」という職種に心が動いた。
「言葉の響きから、探偵役に据えられるかなと思ったんです(笑)。ただ、小説の中でこの役職を扱うなら、さまざまな分野の最先端の研究も取り上げなければいけない。それってすごく難しいなぁと思っていた時に、寝かせていたアイデアが突然浮かび上がってきました」
生命倫理──生と死に人と医療がどう関わるべきか──をテーマにすれば、「臓器移植」「養豚場」「学術調査官」といった断片的な要素を、ひとつにまとめることができるんじゃないか? まさに「既存の要素の新しい組み合わせ」が、新しいアイデアを生み出した瞬間だった。
「最初は、全部の要素を盛り込んだ長編のプロットを作ったんですよ。でも、正直ごちゃごちゃしていたんですよね。だったらひとつひとつの要素をバラして、短編にしてしまったほうがいいんじゃないか。そこから、今の全五話の構成がひらめいたんです。この構成ならば、今まで誰もやったことのなかった"どんでん返し"を仕掛けられるかもしれない。もしかしたら『闇に香る嘘』を超えるような作品になるんじゃないか、という予感が芽生えたのはその時でした」
一人を取るか 複数を取るか
第一篇「優先順位」は、今作の出発点となった、臓器移植を題材にしたミステリだ。光西大学附属病院の新米医師・倉敷は、意識不明の重体となった患者の生体肝移植を望んでいた。だが、適合する肝臓が見つかる確率は低い。その患者は、臓器提供のドナー登録をしていた。上司の進藤准教授は、暗に見捨てろと言う。「この患者の臓器があれば、移植待ちの患者が何人も救われるんだよ。命の数だよ。一つと複数。君はどっちを助ける?」。葛藤が芽生え出したある日、患者が病室から忽然と姿を消した。いったい何が起こったのか?
「最初にミステリのどんでん返しを思いついて、そこに向かって書いていくこともあれば、最初に不可解な謎を設定して、それがどうやって起こったかを考えるという書き方をすることもあります。この短編は、真相から逆算して謎が生まれていった形なんです」
謎と真相だけでは、魅力的な小説にはならない。
「葛藤がなければ面白い物語にはならない、という思いがあります。謎を前にした時、もっとも大きな葛藤が生まれる立場を探して、主人公に据えました。ただ、葛藤している主人公が、真相に近いとは限らないんですよね。むしろ、真相からは一番遠い場所にいたりする(苦笑)。主人公が行動をした結果、無理矢理ではなく自然に手がかりを得て、どういう手順で真相にたどり着くかは、どのミステリを書いていても一番悩むところです」
第二篇「詐病」は、父親がパーキンソン病を演じている謎を、息子が探る。第三篇「命の天秤」は、養豚場を舞台にしたミステリだ。一晩で、母豚の胎内から全ての子豚が消えた。どのようにして? 第四篇「不正疑惑」は、真面目な学術調査官が犯した「罪」を、医療ジャーナリストが追いかける。
登場人物への感情移入が "当事者"性を呼び込む
いずれの作品でも、真相が明かされる瞬間、主人公の葛藤が解消することはない。むしろ、葛藤が爆発的に増大する。例えば、ある人物は「人の生き死にを決める権利が同じ人間にあるだろうか」と心の中で呟き、うなだれる。
「それぞれの問題に対して僕自身がどう思うかではなく、登場人物がどう思うのか。"第三者"としてではなく、問題に直面した"当事者"として、ひとりひとりの思考にシンクロできるかどうかが重要でした。後から冷静になって見直すと、当事者ではなくなった今の自分だったらこういうセリフは出てこないな、と思うことが多々ありましたね」
作家自身に医療従事経験はない。リアリティを得るために手を伸ばしたのは、膨大な専門書だ。それらを読む時、意識していたことがあると言う。
「医療って、誰にとっても馴染みのある分野ですよね。僕自身もそうですが、誰しも聞きかじった知識をいろいろ持っている。でも、専門書を読んでいると、自分の思い込みが覆される情報と出合うんですよ。そこが大事なんですよね。というのも、自分が意外に思ったことって、他の人も意外だと思うんじゃないでしょうか。思い込みが覆された経験を、ミステリのどんでん返しに使えないかと考えるようにしているんです」
誰よりもまず先に、下村自身がどんでん返しを喰らっていたのだ。
「デビュー前の投稿時代から、自分の知らない専門分野を扱ったミステリを書くようにしてきました。どんな分野を扱ってもリアルで面白いミステリにする力を身に付けなければ、デビューしてから生き残っていけないんじゃないかと思っていたからです。と同時に、素人だからこそ、専門家であれば当たり前のものとして受け止めるような情報に対して、素直に驚ける。その驚きが、ミステリの種になっているんです」
それらの知識は、専門書を読めば手に入るものだ。しかし、専門家やもともとその分野に興味のある人でなければ、なかなか手は伸ばさない。
「物語を楽しく読み進めながら、それまで知らなかったことや興味を持っていなかった分野の知識に触れることができる。しかも登場人物への感情移入を通じて、"当事者"となって触れることができるというのは、エンターテインメントの持つ大きな機能のひとつだと思います」
実は、このインタビュー記事は、本作におけるもっとも重大な要素をあえて黙過──知っていながら黙って見逃すこと──している。実際に本を手に取る人のために、その中身は伏せたままにしておこう。冒頭から丁寧に読み進めていけば必ず気が付き、心底驚かされるはずだから。
「この本を読んで良かったと思えるような、印象に残る終わり方って難しいんです。今回も試行錯誤はありましたが、最後の一行でぴたり、と着地することができました。奇跡のようにいろいろな要素が噛み合わさっていった、一生に一度しか書けない作品が完成しました」