源流の人 第15回 ◇ 平林 景 (一般社団法人日本障がい者ファッション協会 代表理事)
「オシャレ」という名の自由をどんな属性にも楽しんで欲しい
美容・教育・福祉の世界を通じ掴んできた理想、新たなる夢
パラ・ファッションだからこそかっこよく。自らスカートの裾を翻し目指すパリコレで、ランウェイの先に見ている地平とは。
一枚の巻きスカートをまとい、揺るぎない眼差しで立つ。そんな男性の姿をとらえた写真が、ここ最近、メディアを駆けめぐっている。
黒を基調としたロングの巻きスカートには、「無限の空間」を主題にしたという、ほの青くシャープな絵柄が施され、陽光を受け止めている。スカートの側面にある幾重ものプリーツは、直線的な縦のラインをさらに際立たせ、シャープな印象を醸し出す。「スカートは女性のもの」などという黴の生えた概念を覆し、男性でも抵抗なく、むしろチャレンジしてみたいと思わせるような斬新なデザインだ。腰回りはマジックテープによって、誰にでも容易に着脱が可能になっている。……そう、誰にでも。車椅子に乗る人々にだって。
「障がい者でも、そうでなくても、関係なく着られるようにデザインしています。僕自身も、普段からこれを着て生活していますね」
親しみやすい口調で語るのは、平林景。自らが設立した「日本障がい者ファッション協会」の代表理事を務め、この巻きスカートをデザインしプロデュースしている。
車椅子ユーザーは、あらかじめ椅子にこの巻きスカートを敷いておけば、それに腰掛けて巻くだけで穿くことができる。脱ぐ時だって簡単だ。障がいがあってもなくても、男性でも女性でも、年齢を重ねていても、若くても、どんな人でも着用できる服。平林が「ボトモール(bottom’all)」という名をつけて発表するや、SNSの波に乗って、たちまち全国に拡散し、賛同の声が広がった。すぐにメディアの取材が相次ぎ、二〇二一年秋には、百貨店で販売も決まっている。
すべての人が自由に着られる服を
「この服をつくろうと思ったのには、あるきっかけがあったんです」
平林は、二〇一九年秋のある日に起こったエピソードのことを話し始めた。「昔はオシャレを楽しんでいたのに……」とこぼす、車椅子の男性と出会ったという。男性は平林に対し、こう言ったそうだ。
「今はもう、全然オシャレをしていない。むしろ封印した」
この時、平林は、彼の言葉に疑問を持ったという。
「だって、オシャレは自由なものでしょ。誰に規制をかけられるものでもない。だから、彼に正直に話してみたんです。『今の話、ものすごくモヤっとしてるんですけど』って」
オシャレを我慢するとか、自分で封印するとか、意味、まったくわかんないっす──。そう平林が言うと、彼はこう言い返した。
「まあ、待て。聞け」
男性は、平林に向きなおって、語り始めたという。
「あのな。実際、車椅子で買い物に行くとしよう。気になった服を試着しようとしても、試着室すらない。車椅子が入らないところ、結構あんねん。もし入れるとこがあったとしても、ひとりで着られない服とかも結構あんねん」
「……」
「そうなった時に、必ず誰かの手を借りないといけない。オシャレって『自分の欲求』やろ。自分の欲求を満たすため、誰かの手を煩わせるっていうのが、正直、しんどい」
平林は、その当時を振り返りながら語る。
「ちょっと何とも言えん気持ちになったんです。そもそも、ひとりでも気軽にオシャレを楽しめる服があったら、こんな感情すら抱かなくて済むじゃないですか。だから言ったんです。『そういう服を探して着たらいいんじゃないですか?』って」
すると、男性の顔色が変わった。こみ上げる怒りを抑えたような口調で、こう言い返された。
「無いから、こないなっとんのやろ!」
ないものを探すことは、どれほど難しいことか。彼の気持ちに寄り添えなかった自身の不明を恥じた。そして、次の瞬間、平林は閃いた。そして即座に、彼に告げた。
「なら、つくりますわ!」
車椅子ユーザーにとって、トップス(上半身に着る服)はまだしも、ボトムス(下半身に着る服)は着脱が難しいことが多い。いったい、どういうものなら穿きやすく、脱ぎやすいのか。平林は、兵庫教育大学の小川修史准教授(特別支援教育)のもとを訪ねた。小川や、学生、卒業生たちとざっくばらんに話し合いを重ねた結果、出てきた案が、巻きスカートだった。なるほど、巻きスカートなら着脱は容易だ。妙案、妙案。「いや、待てよ……」。平林の脳裏に一抹の懸念が浮かんだ。
「男性に突然、『巻きスカートを穿いて』って言って、受け容れられるやろか。難色を示すひとは多いのでは」
いっぽうで、こうも考えた。
「でも、袴だったら、誰でも抵抗なく穿ける。形状はほぼ同じ。それってなんか不思議だ……」
人々が巻きスカートに対して抱くイメージ、袴に対して抱くイメージ。その違いは何か。考えをめぐらせた挙句、彼がたどり着いたのは、「カッコ良い」「クール」に寄せればどうか、ということだった。平林は言う。
「『カワイイ』に寄せてしまうと男性は敬遠する。『クール』でなければ。そんな方向で話し合いが進んでいきました」
誰もが着てみたくなる服というコンセプトを前面に打ち出すには、明瞭なネーミングこそが肝要だ。ミーティングは白熱していく。ある日、学生がこんな提案を出した。
「『ボトモール』って良くないですか?」
「何、それ? どういう意味?」
「いや、『ボトム』と『オール』の造語なんですけど。全員が穿けるボトムなので、『ボトモール』」
「ええんちゃう? それ! 採用!」
かくして、世界じゅうのすべての人が自由に着られることを目指した「ボトモール」は生まれた。車椅子に乗った時に美しく見えるように、長さを工夫し、内側の生地を起毛素材にして、血行の悪くなりがちな足を温めている。細やかな配慮を随所に施した。
意外な反響も沸き起こった。性的マイノリティや、自身のジェンダーに疑問を抱える人、トランスジェンダーの人々からも支持の声が広がったのだ。平林はこう語る。
「ジェンダーに関する偏見って、ものすごくヘンだと思ってきました。だから、多様性を打ち出したことによる好意的な反響は嬉しかった」
「ボトモール」以降、平林は障がい者の声を次々と掬い上げていった。「車椅子に乗っていると、ジャケットの後ろの裾がクシャクシャになるから、短い丈のジャケットがあったら良いんだけど。でも男性用って無いんだよね……」。そんな声が寄せられるや、車椅子に乗ってもよれないサイズのジャケットを製作した。身体の片側が麻痺した人でも着やすいトップス、ジッパーがたくさんあって着脱しやすいボトムス。アイテムを次々と揃えていった。
二〇一九年の暮れ、平林は一般社団法人日本障がい者ファッション協会を設立。「ボトモール」をつくるのに一緒に汗を流した小川准教授は副代表に就いた。現在は、地元自治体と連携を深め、平林らを支える輪が広がっている。
「何、勝手に決めてんねん」
美容、教育・福祉、そしてファッションの世界──。挫折や学びを重ねながら、平林は矢のように突っ走ってきた。一見、まるで異なる世界を渡り歩いているようにも見えるが、彼のその道程には、確固たる一本の源流が貫かれている。
新大阪駅のそばで、国立大学の事務を務める両親のもと、四人きょうだいの長男として平林は生まれ育った。
「絵を描くのが好きでした。『それやったら習いに行きや』と言われ、絵画教室に通わせてもらった。好きなことに対して応援してくれました」
ところが、小学校に上がってから、平林は教師から目をつけられてしまう。思ったことをそのまま、口に出す。授業中も、ずっと喋り続ける。黒板を見ていなければいけないのに、くるっと後ろを振り返ってしまう。彼は言う。
「通知表には『授業中、落ち着きがない』って、六年間、延々書かれました」
当時は、「ADHD(注意欠如・多動症)」や「発達障害」などといった概念が広まっていなかった。なぜ、教師にいろいろ怒られるのか、いっこうに理解できなかった。気がつくと、茹で蛸のような顔をした教師から教科書を投げつけられたこともあった。彼は振り返る。
「あまりにも言うことを聞かなかったんです。中学に入って、多少、多動の傾向は収まってきたのですが、思ったことを言って、トラブルになってしまうことは絶えませんでした」
周囲との違和感、自分らしく生きられない窮屈。周りが決めた「常識」に疑問を抱いていたという。
「『何、勝手に決めてんねん』みたいな。今でもそうですが、意味のわからない、理屈の通らないものは好きじゃない」
いっぽう、授業では、さまざまな境遇に置かれた人たちの歴史を学んだ。ただ、「差別で虐げられてきた人たちは大変で、かわいそう」。そんなステレオタイプな括り方には、違和感をぬぐえなかったという。
「いや、そうじゃない奴も絶対おるやろ、って。マイノリティはかわいそう、だけやない」
この頃、抱いていたモヤモヤが、のちに「ハンディキャップを欠点と捉えない、捉えたくない」という、平林自身のメソッドの萌芽へと繋がっていった。
美容師になろう。そんな夢を、彼は高校入学の前に既に決めていた。きっかけは、「吉田栄作」だった。
「自分の髪の毛をいじるのが好きだったんですよ。僕、癖っ毛なんですけど、当時、サラサラヘアが流行っていた。サラサラヘアといえば吉田栄作さんですよ(笑)。でも、彼みたいにするには、卓越したブロー技術が必要だった。美容師さんに教えてもらうと、自分の技術もどんどん上手くなっていく。『おもしろい!』ってなったんです」
高校進学と当時に、彼は地元・新大阪の美容室でバイトに明け暮れた。バンド活動にも熱中した。当時のバンドブームの主流といえば「LUNA SEA」「黒夢」などビジュアル系。大阪・難波にあったライブハウス「ロケッツ」でギターをかき鳴らした。高校では、水泳部の部活動に明け暮れた。平林は笑って言う。
「だから、勉強する隙間がなかった」
高校卒業後、美容師の専門学校へ。就職先は全寮制のサロンで、深夜も練習室にこもって技術を磨き続けた。そんな平林の身体に、異変が訪れたのは、社会人になって間もない頃だった。
「もう、手荒れが酷くて。何度か休んで、腫れが引いたらまた出勤、を繰り返したのですが、『ちょっと無理だな』と」
別のサロンに転籍し、こんどはスタイリストとして勤務したものの、やはり一向に快癒しなかった。ヘアカラー、パーマ液などの薬剤が、アトピー性皮膚炎の平林にはどうしても合わなかった。手だけだった炎症が体じゅうに広がった。
二十五歳で、平林は美容師の職業から退いた。はじめて鬱の状態に陥り、半年ほど心療内科に通った。
長所を伸ばすフリースクールをつくろう
こころの沈みが寛解してきたある日、美容師時代の知人から誘いを受け、平林は転職を決めた。そこは、日本全国で専門学校・教育事業を展開する学校法人で、平林は大阪市内の美容専門学校へ配属された。ここで数年間、教鞭を執った後、彼は東京に移籍することになった。学校法人に提案した新規事業が採用されたのだ。
「発達障害の子たちの長所を伸ばす学校をつくりたい」
この頃には既に、幼き日々の自分も同様の属性であったことを認識していた。ごく近しい人に、同じ属性を持つ人もいた。従来の教育にみられたような、発達障害の凸凹の「凹」の部分を、水準まで引き上げる方針ではなく、むしろ「凸」を伸ばした方が、おもしろい人に育つ。自己肯定感が削られず成長できるはず。──そんな提案をしたところ、高評価を受け採用され、「東京未来大学こどもみらい園」「みらいフリースクール」の設立に繋がった。
「みらい園」は発達障害の未就学から小学生までの子どもたちの長所を伸ばす個別指導塾だ。ダンス、絵画など多彩な学びの場を用意し、子どもたちを見守った。「みらいフリースクール」では不登校児を対象に、将来に対する不安を取り除くにはどうすべきか考えをめぐらせた。彼は言う。
「日本全国のフリースクールを回って思ったのは、大半が公民館、古いアパートの一室、古い校舎だということ。モチベーションを上げてくれるところではないと思いました。キレイな校舎のスクールだったら、絶対おもろいわ、と思ったんです」
学校に行くよりも、こっちに通いたい。優越感さえ抱けるような場をつくれば良い。通信制高校、大学の併設された場所にスクールを立ち上げれば安心感に変わる。マイナスをプラスと捉えてもらうべく、平林は副園長として心血を注いだ。
二〇一七年、独立。関西に戻り、これまで培ってきた「凸を伸ばしていくノウハウ」を生かし、放課後等デイサービスを起業するに至った。
障がいがあるからできる強烈にかっこいいファッション
平林の足跡をたどってみて、わかること。それは、彼は一貫して「常識とされていること」や、「凸を伸ばすよりも凹のヘコみを直すこと」に対し、それから、「マイナスをゼロにすること」に対して、懐疑の眼差しを向けているということだ。いま、彼が情熱を傾けているファッションについても、こう強調する。
「障がい者でもオシャレできるよ、みたいな考えは僕、すごく嫌いなんです。そうじゃなくて、障がい者だからこそ強烈にかっこよくなるファッションがあるはず」
片腕がないからこそ、車椅子に座るからこそ。そんなオシャレって必ずあるはずだ。障がいのない人が真似したくなるようなものこそ、平林は最先端だと捉えている。
「マイナスが強烈なプラスに変わる。ここまでしなければ、世の中の価値観って変わらない。薄暗い、可哀想、劣っている、ネガティブ。それを『うわあ、超クールや!』ってところまで持っていけるのが、ファッションの面白いところ。常識を打ち破れるパワーを持っているのは、理屈抜きで、オシャレの力だと思うんです」
世の中にこびり付いた偏見を取り除くには、自らが風を切って進まなければ。それで、平林はユニセックスの巻きスカート「ボトモール」を自らまとって街を闊歩するようになった。「男のくせにスカートなんて」などと、化石級の捨て台詞をかけてくる人もいるが、「カッコ良い!」「素敵!」という好意的な声が圧倒的に多いという。「ボトモール」は、二〇二一年秋、髙島屋の一部店舗で販売が始まる予定だ。その縫製を担うのは、就労支援事業所の通所者たちだ。平林はその意図をこう説明する。
「技術を身に付けてもらえたら、雇用へと繋がります。彼らはあまりに安い賃金で働いている現状がある。この先、『ボトモール』に価値が生まれれば、賃金も上がり、自分たちにしかつくれないものを、つくっているというプライドを持ってもらえる。プライドって、生きていくうえで大事なことだと僕は思うんです」
そのためにも、彼には今、挑むべき頂が見えている。車椅子の人によるファッションショー。舞台は「パリ・コレクション」だ。
世界の新たな扉を開く
車椅子ユーザーがランウェイに姿を現した舞台は、これまでにもあった。しかし、平林の構想は、「障がい者のファッションショー」で終わるのではなく、パリコレで「車椅子だからこそカッコ良いファッションショー」を開くという点に重心が置かれている。当初は二〇二〇年に行うべく準備してきたが、コロナ禍に端を発する欧州での「アジア人ヘイト」に対する懸念が残り、二年延期を決めた。しかし準備は進行している。二〇二一年七月には車椅子ユーザーのオーディションを実施した。五十人近い応募があり、五人に絞ったものの、最終結果は来年の最終オーディションに持ち込むことにしたという。
「当面は、パリコレに向かって進んでいます。ただ、僕自身は、その時の社会課題や、興味のある分野を追求していきたい。おそらくここで終わる感じはしない。何か別のモノが生まれてくる予感はしています」
その、「別のモノ」を見つけ出すために、平林が自身に言い聞かせていることがある。それは「クロススタイル」という言葉だ。説明する時、彼は両手を眼前に「ハ」の字に掲げ、ゆっくり頂に向かうように手を動かした。
「困りごとを抱える当事者と僕とは今はまだ、離れたところにいます。『もし自分がその立場だったら』を突き詰めた時、リンクするところが出てくるはずです」
もしも、車椅子に乗ることが当たり前の世界だったら。もしも、僕がその世界を生きていたら──。平林の右と左の手が、中央でぶつかった。彼は笑顔で言葉を継いだ。
「知ることによって相手の立場を知り、相手の考えに想像をめぐらせる。面白いモノは、アダプトしてみなければ、出てきません」
五感を働かせながら、問い続けよう。あとどれほど道を進めば、クロスするだろう。「もしも」を問い続けない限り、世界の新たな扉は開かない。そう信じ、歩みを止めない平林は、パリで開かれるショーの主題を「if…(もしも)」と名付けることに決めている。
平林 景(ひらばやし・けい)
1977年、大阪府生まれ。元・美容師。学校法人三幸学園に十四年勤務し、専門学校の教員や、東京未来大学こどもみらい園・副園長、東京未来大学みらいフリースクール・副スクール長を兼務。2017年1月、独立。放課後等デイサービスを起業した後、2019年12月、一般社団法人日本障がい者ファッション協会(JPFA)を設立、代表理事に就任。「福祉業界のオシャレ番長」のニックネームで知られる起業家。
(インタビュー/加賀直樹 写真/丘 滉平、松田麻樹)
〈「本の窓」2021年9・10月合併号掲載〉