著者の窓 第10回 ◈ デイヴィッド・ピース『TOKYO REDUX 下山迷宮』

著者の窓 第10回 ◈ デイヴィッド・ピース『TOKYO REDUX 下山迷宮』

 一九四九年七月、当時の国鉄総裁・下山定則が行方不明となり、轢死体となって発見されるという怪事件が発生しました。いわゆる下山事件です。今なお議論が尽きないこの戦後最大の謎に、東京在住のイギリス人作家デイヴィッド・ピースさんが挑みました。下山総裁は殺されたのか、それとも自殺だったのか? 虚実のあわいを縫う物語で事件の真相に肉薄した野心作『TOKYO REDUX 下山迷宮』(文藝春秋、黒川敏行訳)について、ピースさんに話を訊きました。


犯罪は時代を理解する手がかりになる

──ピースさんは二〇〇七年刊の『TOKYO YEAR ZERO』以来、戦後の占領期を舞台にした〈東京三部作〉を書き継いでこられました。イギリス人であるピースさんが、この時代に関心を持たれた経緯を教えていただけますか。

 私は一九九四年に来日して以来東京に住んでいるのですが、私が暮らしている墨田区の玉の井、東向島あたりは東京大空襲で甚大な被害を受けたエリアでもあります。一九四五年の敗戦から東京がどのように復興し、モダンな大都市へと生まれ変わったのか、その歴史に関心を抱きました。特に降伏・占領がこの街の変容にどのような影響を及ぼしたのかはイギリスの学校では教えていないこともあり、詳しく知りたいと思ったんです。しかも占領期には不可解な事件がいくつも起こっていて、解明されるべき謎を孕んでいる。それで占領期の東京を舞台にした犯罪小説を書こうと考えました。

──〈東京三部作〉では戦後実際に起こった事件が扱われています。『TOKYO YEAR ZERO』では小平事件(一九四五年に起こった連続殺人)が、『占領都市 TOKYO YEAR ZERO Ⅱ』では帝銀事件(一九四八年に起こった銀行強盗殺人)が、そして最新作『TOKYO REDUX』では一九四九年の下山事件がモチーフになっています。

 犯罪はそれが起こった時代や場所、社会を理解する手がかりを与えてくれるものだというのが私の考えです。たとえば小平事件の犯人は食料をあげるといって被害者に声をかけていますし、軍人として中国大陸に渡った経験も事件に影響しています。帝銀事件が起こった当時は赤痢が流行しており、犯人はその予防薬だと偽って青酸化合物を配った。犯罪は占領期という特異な時代を見ていくうえで、大きなヒントとなるものなんです。

──ピースさんはこれらの事件にどのように興味を持たれたのですか。

 来日後、エドワード・サイデンステッカー(日本文学者、翻訳家)が東京の歴史について書いた本を読みました。そのうちの一冊に日本の犯罪を紹介した箇所があり、小平事件、帝銀事件、下山事件についての概要を知ったんです。マーク・シュライバーというライターの書いた犯罪実話本にも、戦後の怪事件として帝銀事件と下山事件が紹介されていたと思います。
 私にとって興味深いのは、これら三つの事件がそれぞれ異なる性質を持っていることです。小平事件は犯人が逮捕されており、いわば完全に解決された事件です。帝銀事件も犯人は捕まり死刑判決も出ていますが、彼が無実だったという説もあって真相がはっきりしない。そして下山事件になるとそもそも事件かどうか分かりません。自殺説、他殺説に加えてさまざまな陰謀説が囁かれており、複雑怪奇な様相を呈しています。三つの事件はそれぞれ異なる形で、私の興味を強く惹きつけるのです。

アメリカ人捜査官の視点から事件を描く

──物語は三部構成。第一部ではGHQ(連合国軍総司令部)の捜査官ハリー・スウィーニーの視点を通して、下山事件直後の状況が克明に描かれていきます。この章の主人公をアメリカ人にしたのはなぜですか。

 いくつか理由があります。第一に私が知る限り、アメリカ人を主人公にして書かれた下山事件の本はこれまでありません。既存の作品と差別化するうえで、GHQ捜査官を主人公にするのは効果的だと思いました。また若い読者や日本以外の読者に向けて下山事件を語るうえでも、ハリーの視点は効果的でした。予備知識のない状況から、事件の推移をあらためて描くことができるからです。そもそも小平事件や帝銀事件とは異なり、下山事件はアメリカ人が積極的に関わった事件でした。国会図書館にはGHQの資料が保管されていますが、その中には下山事件に関する記録も大量に残されているんです。

デイヴィッド・ピースさん

──日本の占領政策に大きな影響を与えたチャールズ・ウィロビー少将など、実在の人物も数多く登場します。ハリー・スウィーニーにモデルはいるのでしょうか。

 元ニューヨーク市警の刑事だったハリー・シュパックという人物がいます。彼はGHQの一員として来日し、警察組織の再編や組織犯罪の摘発に尽力しました。彼がハリー・スウィーニーのモデルと言っていいでしょう。その他、ほとんどすべての登場人物も何らかのかたちで実在の人物をモデルにしています。しかし同時に、これがあくまで小説であるということも強く意識しています。つまり『TOKYO REDUX』は、戦後日本の暗く秘められた闇の歴史を、私なりに解釈し、ドラマにしようとする試みなのです。しかし登場人物の言動が私が読んだ公的な記録の範囲内に留まる場合──下山総裁やウィロビー少将らですね──を除いて、名前は実際のものから変えています。そうした人物は、いわば私の想像という音楽にあわせて踊っているわけですから。

──占領期の東京に漂う暗い雰囲気が、リアルに再現されていて圧倒されました。ピースさんは戦後の東京に関する知識を、どのように得ていったんでしょうか。

 ありがとうございます。リアルな戦後の雰囲気の中に読者を連れていきたいというのが私の願いなので、そう感じていただけたなら嬉しいです。『TOKYO REDUX』の取材を具体的に始めたのは二〇〇五年頃ですが、それ以前にも戦後社会に関する本はたくさん読んできました。サイデンステッカーの書いた日本の歴史の本、太宰治や坂口安吾、永井荷風が戦後について書いた随筆などを読むことで、小説を書くためのディテールや歴史的なニュアンスをつかんでいったんです。
 下山事件についてはできるだけ多くの資料を集め、日本語の資料は編集者やエージェントに翻訳してもらい、片っ端から読み込みました。下山総裁が姿を消した三越百貨店や事件現場となった綾瀬駅付近にも足を運びました。シリーズ前作の『占領都市』から十年以上も間が空いてしまったのは、こうした調査に時間を費やしたことが大きいですね。

ちりばめられた日本文学へのオマージュ

──第二部は東京オリンピックを控えた一九六四年、第三部は昭和の終わりが目前に迫った一九八八年〜八九年を舞台にしています。三つの異なる時代が下山事件によって繋がっていく、という構成が秀逸ですね。

 当初は一九四九年だけを舞台にするつもりだったのですが、事件の全貌を捉えるには三つの時代を書く必要があると気がつきました。というのもこの事件は時代によって見方が変化していくんです。事件発生当時はリストラを断行しようとしていた下山総裁が、労働組合の反発に悩んで自殺したと考えられていました。それが一九六〇年代になるとアメリカ軍に謀殺されたという説が浮上してきます。
 また一九六四年は日本の経済的復興の象徴である東京オリンピックの開催年であり、かつ下山事件が時効を迎える年でもありました。一九八八年から八九年にかけては昭和天皇が危篤に陥り、昭和の終わりが近づいていた。三つのパートはそれぞれ時代の大きな節目だったのです。

──三章を通して読むことで、下山総裁怪死の真相が徐々に浮かび上がってきます。この意外な真相は、執筆当初から決めていたのでしょうか。

 事件に関してはオープンマインドで取り組むというのが私の基本姿勢です。今回も自殺説から他殺説までさまざまな可能性を検討し、長い時間をかけてこの事件が何だったのかを理解しようと試みました。そして最終的にいたったのが、作品に書いたような結論です。

──先行作品への膨大なオマージュや引用も〈東京三部作〉の特徴ですね。前二作では芥川龍之介作品が重要なモチーフになっていましたが、『TOKYO REDUX』はどんな作品を下敷きにしているのでしょうか。

 第一部はダシール・ハメットの探偵小説のスタイルを模していますし、第二部に登場する根室という男は安部公房の『燃えつきた地図』の登場人物と同名です。第三部はサイデンステッカーの日記を下敷きにしていますが、ジョン・ル・カレのスパイ小説風でもありますね。このように多くの文学作品に目配せをしていますが、一番大きな関係があるのは上田秋成の『春雨物語』でしょう。作品の全体的な構成や『夏雨物語』と題された作中作の存在など、さまざまなレベルで秋成と『春雨物語』には影響を受けています。

デイヴィッド・ピースさん

──「REDUX」とは「帰ってきた」という意味ですね。『TOKYO REDUX』というタイトルにはどんな意図が込められているのでしょうか。

 一九四九年という時間があたかも亡霊のように、一九六〇年代にも八〇年代にも戻ってきて、その時代を生きている人びとに取り憑いてしまう。「REDUX」にはそういうイメージがあります。それは下山事件もそうですし、占領期のレガシー(遺産)にしてもそうですね。我々が忘れていたとしても、一九四九年は消えずにそこにあるのです。ちなみに日本版の「下山迷宮」というサブタイトルも私は気に入っています。下山事件はまさに迷宮のように、人びとを迷わせる性質を持っていますから。

戦後の風景を身近に感じてほしい

──確かにこの作品を読むと、占領期と現代のつながりを実感することができます。

 ええ。ただ一口に占領期といっても、二つのフェイズに分けられます。ひとつはニューディーラーによってもたらされた民主的な占領政策。労働組合を推奨し、政治的なダイバーシティーを実現しました。日本国憲法はこの時代のレガシーの最たるものです。しかし時代が移り変わり、中国が西側諸国の脅威として勃興してくると、日本は逆コースを歩まされる。保守陣営の一党が強い力をもつ日本の政治体制は、この第二フェイズのレガシーといえます。分裂した性質を持った占領期は、それぞれに戦後社会に影響を与えているのです。

──東京はピースさんにとっても身近な街だと思いますが、〈東京三部作〉を完成させたことで東京観に変化はありましたか。

 この三部作を執筆するために、東京じゅうを歩き回りました。古い街並みは失われていることが多いですが、たとえ街並みは変化していても、丘や谷などの地形は昔のまま残っています。現代と戦後のつながりをあらためて意識する場面が多々ありました。作中には東京のレストランやバーを実名で登場させています。パンデミックによって歴史ある店が閉店していくのは悲しむべきことですが、まだいくつかは営業しています。この作品を読んだ方が東京の街を歩き、食べたり飲んだりしながら、戦後の風景をあらためて身近に感じてくれたら嬉しいと思っています。


TOKYO REDUX

『TOKYO REDUX  下山迷宮』
デイヴィッド・ピース/著
黒川敏行/訳

文藝春秋

デイヴィッド・ピース(David Peace)
1967年イギリス生まれ。作家、東京大学講師。1994年に日本に移り住み、仕事のかたわら執筆した『1974 ジョーカー』でデビュー。同作にはじまる〈ヨークシャー四部作〉はイギリスでTVドラマ化された。〈東京三部作〉の第一作『TOKYO YEAR ZERO』で、ドイツ・ミステリ大賞受賞、「このミステリーがすごい!」第3位、第二作『占領都市』は「このミステリーがすごい!」第2位。他の作品に『Xと云う患者 龍之介幻想』、GB84、The Damned Utd、Red Or Dead がある。GB84 はジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を受賞するなど、世界各国で高く評価されている。

(インタビュー/朝宮運河 本文中写真/黒石あみ)
「本の窓」2021年11月号掲載〉

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