【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の38回目。政治的無色を買われて総理の座についた「阿部信行」について解説します。
第38回
第36代内閣総理大臣
1875年(明治8)~1953年(昭和28)
写真/KGPhoto
Data 阿部信行
生没年月日 1875年(明治8)11月24日~1953年(昭和28)9月7日
総理任期 1939年(昭和14)8月30日~40年(昭和15)1月16日
通算日数 140日
出生地 石川県金沢市(旧石川県金沢城下)
出身校 陸軍大学校
歴任大臣 班列(無任所大臣)など
墓 所 京都市の大徳寺芳春院
阿部信行はどんな政治家か
陸軍との調整役
陸軍では、陸軍大学校教官、参謀本部総務部長、陸軍次官など、実戦とは無縁の文官的な役割で力を発揮しました。政治的に無色であることが買われ、陸軍と他勢力の双方が折り合える人物として総理に就任したのです。当時は、日中戦争による物資不足、物価高騰が国民の生活を苦しめており、それを解消するために物価抑制政策を実施しました。
阿部信行 その人物像と業績
「政治的無色」を買われた陸軍軍政畑の長老
エリート軍人として軍政畑の長老となった阿部は、
昭和天皇の推薦によって総理の座についた。
しかし、陸軍の意向に寄った政策が失政を招き、退陣に追い込まれる。
●戦わぬ将軍
阿部信行は1875年(明治8)11月24日、金沢藩(石川県)の藩士だった阿部信満の長男として生まれる。5歳のときに父が亡くなり、家計は貧しかったが、厳しく育てられた。東京府立一中(現都立日比谷高校)をへて1893年(明治26)に第四高等学校(現金沢大学)に進学。「日本のエジソン」になることが阿部の夢であった。
しかし、翌1894年(明治27)に起こった日清戦争に刺激され、陸軍士官学校への転校を決意。1895年(明治28)に陸軍士官学校(第9期)に移った。同期の荒木貞夫・真崎甚三郎・本庄繁・松井石根とともに「9期5人男」と呼ばれ、秀才として周囲の耳目を集めた。陸軍大学校でも卒業時に明治天皇から「恩賜の軍刀」を授与される優秀な成績であった。
陸軍大学校教官をへてドイツに留学、1913年(大正2)にオーストリア大使館付武官補佐官となる。その翌年7月に、第1次世界大戦が勃発し、大使館が閉鎖されて帰国。参謀本部の課長・部長をへて、1926年(大正15)7月、第1次若槻礼次郎内閣で陸軍大臣に就任した宇垣一成に登用され軍務局長になると、田中義一内閣の陸軍次官、台湾軍司令官など軍政で腕をふるった。阿部自身は軍政に興味がなかったが、周囲は「軍政ならば阿部」と評価していた。阿部が「戦わぬ将軍」といわれているのは、このような経歴で、戦闘経験がほとんどないためである。
●降ってわいた総理就任
1936年(昭和11)、二・二六事件が起こると、軍事参議官であった阿部は、「われわれ大将は引退すべき」と率先して全員の引責辞任を主張。阿部・荒木・真崎・林銑十郎の4人の陸軍大将が予備役となった。
「俺は政治は嫌だ、政治家になるくらいなら軍人なんかになりはしない」と言っていた阿部にとって、この時期は悠々自適、いちばん穏やかな日々だっただろう。近衛篤麿(文麿の父)が創設した東洋保全をめざす東亜同文会の理事長を務めるほかは、あちこちを旅してまわったという。
そこへ1939年(昭和14)8月、突然、総理として組閣せよという大命が下ったのである。阿部にとって青天の霹靂であった。
阿部は、浜口雄幸内閣のときに、病を得た宇垣陸相の臨時代理を半年ほど務めたことがある。しかし、ほかに大臣の経験もなく、陸軍の派閥色も薄い。世間にも阿部の名はほとんど知られていなかった。
平沼騏一郎内閣の突然の退陣で、後継として宇垣・荒木・広田弘毅・池田成彬などさまざまな候補の名が上がったものの、どうしてもまとまらない。そうしたなかで阿部の名が浮上する。「政治的無色」な阿部は、政界と陸軍双方にとって摩擦が少ない。昭和天皇はかつて阿部から軍事学を進講されたことがあり、阿部の頭のよさと人柄をよく知っていた。阿部なら自分の意向を忠実に実行すると考えた天皇は、信任する阿部を強く推した。
●進まない外交政策
いま少し落ち着いた世であれば、阿部はその力を発揮できたかもしれない。しかし、当初から困難が予測されていた阿部内閣を、発足2日後に大波が襲う。1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦の火ぶたが切られたのである。
阿部内閣は、4日に「帝国(日本)は之に介入せず」との声明を発表した。これにより、日独伊三国同盟問題は下火になり、国内の対立は多少収まる。イギリス・フランスもソ連も、この状況で日本を刺激し対立することは避けたいはずである。ここで、日中戦争が終結すれば、日本はより有利に各国との関係調整を進めることができるだろう。阿部は、日中戦争の処理こそが使命であり、それを中心にほかの外交策を行なっていこうと考えた。
しかし、それは思うようには進まなかった。
日米通商航海条約の廃棄通告にともなう日米交渉では、中国での日本軍の行動に怒った米国が会談を打ち切り、暫定協約さえ結ぶことができぬまま、失効目前となっていた。対ソについては、ノモンハン地域国境確定委員会を設置したものの、陸軍の圧力により、日ソ不可侵条約は締結できなかった。
第一の課題であるはずの日中戦争についても、第1次近衛内閣以来の汪兆銘工作を続けるのみで、成果はあがらない。
●わずか4か月半での退陣
阿部内閣は、内政も失敗続きだった。そのひとつが貿易省設置問題である。当時の貿易行政は、商工省貿易局・外務省通商局・大蔵省関税課などに分割所管されていた。こうした複雑な機構を改善するため、貿易省を新設して貿易統制を強化しようという要請が陸軍を中心に高まっていたのだ。阿部内閣はその意向に従い、10月3日に貿易省設置を閣議決定した。関係各省はこれに強く反発。なかでも外務省の反対は激しく、高等官のほとんど全員、百十数名が辞表を提出する「官僚のストライキ」が起こってしまう。
結局、処罰を行なわないなど内閣側が譲歩することで騒動を収めたが、貿易省設置問題は立ち消えとなった。
もうひとつは、物価政策の失敗である。阿部内閣は10月18日に、前月の9月18日の価格を超えて値上げすることを禁止する「価格等統制令」を公布した。高騰する物価を抑制するためである。ところが、米不足に陥ったとして、1か月もたたない11月6日に、米の出回り促進のため米価を引き上げたのだ。しかし、米価上昇を見込んで米はさらに市場に出なくなり、またほかの物品の物価上昇と物資不足を招くことになった。
国民の不平不満が高まり、12月26日に衆議院の有志が内閣不信任を勧告。阿部を推した陸軍も見放し、翌1940年(昭和15)1月14日、誕生からわずか4か月半で内閣は総辞職した。
●日華基本条約の締結
退陣後の同年4月、阿部は特命全権大使として中国に赴く。3月30日に樹立された汪兆銘の南京政府との折衝のためである。8か月におよぶ交渉ののち、11月30日に日華基本条約が締結され、日本は南京政府を中国における正当な政府として認めた。
阿部は1942年(昭和17)5月に翼賛政治会の総裁に就任、貴族院議員となった。さらに1944年(昭和19)7月には朝鮮総督に就任するなど、「政治は嫌だ」という阿部を、時代は放っておいてはくれなかった。
朝鮮総督として終戦を迎えた阿部は、戦犯にはならなかったものの、公職追放となった。陸軍の暴走を止められなかったとみずからを責めつつ、1953年(昭和28)9月、77歳で生涯を終えた。
陸軍大礼服姿の阿部信行。写真/共同通信社
二・二六事件後の阿部信行
1936年(昭和11)2月26日に陸軍青年将校らが起こした二・二六事件の責任を取り、陸軍首脳であった阿部は、軍事参議官から予備役に編入されることになった。写真/毎日新聞社
汪兆銘(右から2番目)と阿部信行
1941年(昭和16)6月、汪兆銘が新政府の基盤強化のために日本の支援を求めて来日。滞在中、汪兆銘は天皇に拝謁し、「日本と中国の真の提携を願う」という言葉に感銘を受けたという。写真/毎日新聞社
(「池上彰と学ぶ日本の総理27」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/04/18)