翻訳者は語る 田中裕子さん

第27回

田中裕子さん

「心が温かくなる一冊」と小泉今日子さんが表したフランスの小説『ナポレオンじいちゃんとぼくと永遠のバラクーダ』。破天荒な元ボクサーの祖父に振り回される家族の様子を、十歳の孫(男子)の目線で描くコメディタッチの作品です。翻訳者の田中裕子さんは、実は熊本でレストランを経営しています。二足のわらじを履きながらの翻訳作業とは……?

〈過激さに読者がドン引きしないか〉

 原書を初めて読んだ時は、主人公の祖父ナポレオンの秘密を探る謎解きに夢中になって、ページをめくる手が止まりませんでした。登場人物一人ひとりが個性的で、それぞれ欠点はありつつも魅力的に描かれ、あたたかい視点を持った物語だな、と。その一方で特に前半の、息子サミュエルに対するナポレオンの態度、悪口や下ネタなどの言葉使いがかなり過激なので、日本の読者がドン引きしないか、という不安も脳裏をかすめました。

 翻訳出版が決まった時は嬉しさ七割、不安三割でした。実は、私にとって本作が初めての長編小説の単独訳だったからです。でも、いざ翻訳作業を始めてみるとほぼ終始楽しかった! 作者がすべてのキャラクターを丁寧に、愛情をもって描いてくれたおかげです。翻訳中も脳内にするすると映像が作られ、まるで目の前で映画が上映されているようで、それに従って訳文を素直に作り上げていくという感じでした。

 心がけたのは、私が原文を読んだ時に感じた、コミカル、シリアス、ロマンティック、詩的、哲学的、ファンタジー的な要素がバランスよく混ざり合った雰囲気をそのまま伝えたい、ということ。読者が素直に笑い泣きできるような訳にしたいと。フランス語の言葉遊び的なジョークが多かったので、それをどうやって自然な日本語にするか、という点にも気をつかいました。

〈ゲラを読んで思わず号泣〉

 私は翻訳をする時はいつも、粗訳の段階ではものすごくハイテンションになり、「え、私、結構うまくない?」などとつぶやきながらポジティブに進めるのですが、見直しの段階で突然我に返って「なにこれ、へったくそ……全然ダメじゃん……」と心の底から愕然とし、ほとんど泣きながら修正をしまくります。仕上げを経てようやく「少しはましになったか」と思いつつ、でも自信は全然なく、不安で悶々としたまま締め切りがやってくるという感じで、その点は今回も同じ。ただ今回、ゲラが出てきて読み直した時、思わず感情移入して号泣してしまったんですね。「まあ、泣けたということはそれほどひどい訳文ではないのかな」と、少しだけ不安が薄らぎました(笑)。

〈祖父のセリフと態度の裏にある思い〉

 本作の一番の魅力は、子どもから大人まで誰もが楽しく読めるところだと思います。主人公の十歳の少年、その両親、祖父母……自分に近い立場の誰かしらに感情移入できる。それほど一人ひとりが魅力的です。読む人の立場や年齢によって、自分を重ねる対象が変わるのではないでしょうか。特に主人公の祖父ナポレオンのセリフや態度には、何気ない一言やしぐさの裏に複雑な思いが隠されています。最後まで読んだら、ナポレオンのセリフだけでも、ぜひもう一度読み返していただきたいです。

〈店も翻訳も忙しいくらいがいい〉

 学生時代はずっと渡英を夢見ていてフランスに対する興味はゼロでしたが、ある時から仏文学と映画にはまってしまい、一気にフランス好きに。会社員をしていた二十三歳の時にフランス語学校に通いはじめ、その後、渡仏してパリに七年滞在する間にビジネス翻訳を、帰国後にフランス語翻訳家の高野優先生から文芸翻訳を学びました。

 今はパートナーのシェフと、サービス・経理・事務の私のふたりで、こぢんまりしたフランス料理店を切り盛りしています。一昨年にはミシュランガイドでビブグルマンをいただきました。開業して今年で十六年目になります。

 翻訳の仕事はランチとディナーの間の休憩時間と、帰宅後の深夜にやっています。「大変でしょう」とたまに言われますが、お店と翻訳では使う頭も筋肉もまったく違うので、互いが互いのリフレッシュになっているらしく、両方適度に忙しいくらいが心身の調子が一番よいようです。むしろ、お店がヒマすぎて翻訳ばかりだとすごく疲れます。逆に、お店が忙しすぎて翻訳がおろそかに、ということは、幸か不幸かあまりない(笑)。田舎の小さな店なのでのんびり営業しています。

 うちのシェフは活字を全く読まない人で、私の翻訳にも無関心。「座ってパソコンに向かっているだけで、楽そうでいいなあ」と思っているようです。なので、そばに彼がいるとやりにくいのですが、あちらは早寝早起きで私とは生活時間が真逆なので、深夜にひとりで静かに仕事ができて助かっています(笑)。


ナポレオンじいちゃんとぼくと永遠のバラクーダ

『ナポレオンじいちゃんとぼくと永遠のバラクーダ』
パスカル・リュテル
訳/田中裕子

田中裕子(たなか・ゆうこ)
フランス語翻訳者。訳書に『パーフェクトな女なんて目指さない!』、アラン『幸福論』、『じいちゃんが語るワインの話』など。

(構成/皆川裕子)
〈「STORY BOX」2020年10月号掲載〉

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