井上真偽さん『ムシカ 鎮虫譜』

『ムシカ 鎮虫譜』

共感できる人たちの物語にしようと思いました

 次世代を担うミステリー作家として注目される井上真偽が発表した新作『ムシカ』は意外極まりない内容だった。瀬戸内海に浮かぶ小島を舞台に、襲来する虫の大群に音楽演奏で対抗する人間の闘いを描いた異色のパニックホラーである。もちろん謎の魅力もたっぷりあるのだが、これはいかなる狙いの作品なのか。作家の新境地に迫る。


──最初にお聞きしたいのは、なぜ虫と音楽の話なのか、ということなんですよ。

井上 最初に「ミュージシャンが虫を音楽で追い払う」っていうシチュエーションがあったんですよ。それが頭に浮かんで、物語を全部組み立てていったんです。

──その設定の元はあるんですか。ハーメルンの笛吹男じゃないですけど。

井上 あるのかと言われればないですね。強いて言えば「(超時空要塞)マクロス」とか(笑)。

危うく挫折しかけた作品だった

──冒険小説というかサバイバルホラーというか、過去作とは雰囲気が変わりましたね。

井上 最初は、もっと読みやすいB級ホラーみたいなものを考えてたんです。「虫が追ってきて、孤島でみんなが逃げ惑う」というパニック系の。着手は早くて、二作目の『その可能性はすでに考えた』を書いた後かな。自分は書きたい話のネタリストみたいなものを作っているんですが、お見せしたら実業之日本社の編集者さんが乗ってくれました。講談社で書きたいと言ったらスルーされたのに(笑)。三、四年ぐらい前でしょうか。でも全然書けなくて、第一稿はできたんですけど、「これは担当さんに見せるレベルではない」と自主的に判断して完全にお蔵入りです。

──第一稿は、何が駄目だったのでしょう。

井上 元凶は主人公たちの設定ですね。最初は成人したプロの音楽家たちだったんです。その人たちとシチュエーションが噛み合わず、作者として嘘臭く感じてしまいました。

──完成稿では、主人公の五人は壁に突き当たった音大生という設定になっていますね。それぞれ、腕の故障であるとかメンタルの弱さとか、問題を抱えていると。彼らを舞台に配置できて初めて、物語の形が見えてきたという感じですか。

井上 そのとおりです。自分自身のそのときの気持ち、物語を創る人間の苦しみと、登場人物の悩みみたいなものが重なって初めて、「これならいけるぞ」と思いました。初稿の失敗は、自分が感情移入できなかったからだと思うんです。

──音大生という不安定な立場の人たちを主人公にしたというのもそうなんですが、それぞれが使える楽器が違うのもキャラクターとしていいですね。虫によって撃退できる音域が違うという設定だから、楽器との相性がある。「小道具を持たせるとキャラクターはいい動きをする」という作劇法の典型だと思いました。

井上 ありがとうございます。それぞれの持つ楽器は最初から決めていたわけではなくて、五人に役割を与えていく過程で自然発生的に出てきたものなんです。「この人にこれを持たせたらおもしろくなるんじゃないか」というように。

──井上さんも楽器を演奏されるんですか。

井上 自分では全然弾けないです。ただDTM(デスクトップミュージック)で少し作曲をやっていた時期はあって、音楽の基本理論を学びにスクールにも通っています。そこをベースにすれば書けるとは思いました。

実はミステリー作家志望じゃなかった

──こちらの勝手な思い込みとしては、井上さんは知的パズラーの書き手というか、ものすごい勢いで仮説を立てていく、超人探偵みたいな感じのイメージがあるんです。

井上 でも、自分はもともとそんなにミステリーを書きたかったわけではないんですよ。メフィスト賞に応募したのも大学生の女の子を主人公にしたスパイコメディだったんですが、それが散々言われはしたものの選考座談会で取り上げてもらえて。もしかするとこの賞は自分に向いているかもしれないと思って調べたら、ミステリー色が強い賞だとわかったんですね。それで「自分の考えたミステリー」を書いたのが受賞した『恋と禁忌の述語論理』です。

──そのころのミステリー観というのはどういう感じだったんですか。

井上 伏線から謎の答えが論理的に導かれるというシンプルなものでした。ミステリーもそんなに読んでなくて、マンガの『金田一少年の事件簿』とかのほうがイメージは強かったですね。自分にとって、小説のおもしろさはやはりキャラクターなんですよ。まずキャラクターを立たせるのが自分が小説を書く上での第一条件です。第二作の『その可能性はすでに考えた』では、一作目に出したキャラクターをもう少し膨らませようと考えて書き始めました。

──強化ですね。マンガで言うと、読み切りの設定を連載用にするみたいな感じ。

井上 まさにそのとおりです。書きながらどんどんどんどん尖らせていったというか、「とりあえず探偵が否定をする話にしよう」と。それはそれで新しいかなと思ったんですが、書き始めたら大変で四苦八苦しました。どういうものに行き着くのかが全然見えないまま進めていって、最後になんとか力づくで片付けるという。「アイデアを一本、話にする」というのが最初のうちはなかなかできなかったですね。

──でも、第三作の『聖女の毒盃』も含めて、初期作品はとにかくすごいアイデア量だったですよね。読者としては、それが井上さんの武器だと思っていたんです。とにかく探偵が謎解きをどんどんしてくれる、というのが。

井上 それが武器なのかは自分でもわからないんですけど、第二作ではとにかく出し惜しみしないようにしましたね。第三作を書かせてもらえる保証なんてどこにもないし、出し惜しみしてる場合じゃないと。今ここで書けることは入れてしまおうと思って、とにかく作品を一番おもしろくすることだけを考えました。

──第四作は講談社タイガという文庫の上下巻で出た『探偵が早すぎる』でした。犯人に探偵が先回りして事件発生する前に解決してしまうという。悪事がすべて阻止される「ヤッターマン」のトリオみたいでおもしろかったです。

井上 『金田一少年の事件簿』に「探偵の防御率」という話題が出てきたんですよ。「探偵がいても殺人は阻止できないことがある」みたいなことが書かれていたので、じゃあ防御率一〇〇パーセントの探偵を出してみようかと。

──絶対探偵に負けちゃうんで、読んでいると悪人が可哀想に思えてくるんですよね(笑)。

普通の人たちで物語を動かしたい

──井上さんは昨年『ベーシックインカム』という短篇集を刊行されました。あれは『ムシカ』の執筆時期と並行しているんだと思います。『ベーシックインカム』は大別するとSFに分類される作品ですが、そういったものも素地にあったというのがちょっと意外でした。

井上 依頼されたのは、たぶん二作目ぐらいのときなんです。『その可能性』って、かなり特殊な小説なので、自分の中で「普通の小説」の感覚がよくわからなくなっていたんですね。そこに依頼が来たものだから、普通の人たちが出てくる小説を書きたいという思いが強くなった。でも、それだけだと話にはならないので、自分の中にある知識や問題意識を重ね合わせて書いたんです。たまたまそれがSF的な題材だったので、ああいう形になったんですね。とにかく自分が重要視しているのは物語を書くということで、ジャンルとかテーマとかにはこだわりがありません。

──たとえばミステリーという物語の形式は、どういうところに魅力を感じますか。

井上 ミステリーは「謎を用意してそれを解く」という形にすれば、何を選んでも話になるので作者としては楽なんです。ただし、逆に物語形式に甘えてしまうところもあって、怖くもありますね。そうした謎にこだわらない小説もいずれは書いてみたいとは思いますが、今のところはエンタメの作家としてミステリーの構造は大事にしていくつもりです。

作者がいちばん大変だったのは……

──『ムシカ』の話題に戻りますが、この作品には小道具を使ってキャラクターを立て、ピンチを切り抜けさせるという展開のおもしろさがあります。その切り抜け方が毎回違うというところにアイデア量の豊富さも示されている。属性の特異さではなくて、動きでキャラクターを立てることに成功している作品だと思います。

井上 今回は本当に、ストーリーのおもしろさで読んでもらいたいと思って書いた小説でした。登場人物をあまり変わったキャラクターにせず、普通に共感できる人たちの物語にしようと。そうしたことによって物語が動いたので、本当に正解だったと思います。

──島の中で三つぐらいグループができますけど、登場人物が分散したことで動きが出ましたよね。お互いの姿が見えないことで「この後どうなっちゃうんだろう」というスリルが高まる。視点人物のバトンタッチの仕方とか、こういうテンポで場面転換をするとうまくいく、みたいなコツをたぶん途中で掴まれたんじゃないかな、という気がします。

井上 そう言ってもらえるのは本当にうれしいですね。毎作毎作、いろいろ試行錯誤して書いてるので。でも、「テンポのいい話が書きたい」とはずっと思っていたんです。

──あと、虫の描写がいいですよね。ぞわぞわして。改めてお聞きしちゃいますけど、なんで虫だったんですか。

井上 本当に嫌なのってやっぱり虫じゃないですか。それを追い払うということですね。やらないようにしたのは虫を巨大化させることで、視覚的な恐怖だと思うので小説だと怖さがなかなか伝わりにくい。単純に「それが来たら絶対嫌」というのをやりたかったんです。

──その狙いは成功していると思います(笑)。さっきのネタリストには、同じようなホラーも他にあるんでしょうか。

井上 テロリストものとかはあったかな。すごい正攻法のホラーはこれだけです。

──ちなみに、お書きになっていて、いちばん大変だったのはどこでしたか。

井上 演奏の場面ですね。楽器が弾けない自分にとってはすごい挑戦で、あれを書くために『のだめカンタービレ』の全巻を読みました(笑)。「虫に襲われる」という特殊な場面だからなんとかなったんですよ。あれがたとえば恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』みたいなちゃんとした演奏だったら無理でした。よく書ける方法を見つけられたな、と思います。

──しかも緊迫したバトル場面になってますしね。抜群のエンタメですよ。さて、そろそろお時間なので、〆としてこれから読まれる方に何か一言いただけますか。

井上 はい。虫が苦手でも、音楽が好きな方なら音楽への愛で乗り切れるはずです(笑)。ぜひ体験してください。

──音楽は虫に勝つ!


『ムシカ 鎮虫譜』

実業之日本社

井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身。東京大学卒業。『恋と禁忌の述語論理(プレディケット)』で第51回メフィスト賞を受賞しデビュー。2016年、『その可能性はすでに考えた』が第16回本格ミステリ大賞の候補に選ばれる。17年、『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』が「2017本格ミステリ・ベスト10」の第一位となる。18年、『探偵が早すぎる』がドラマ化され話題に。近刊にSFミステリ短編集『ベーシックインカム』がある。

(構成/杉江松恋)
〈「きらら」2020年10月号掲載〉

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