『日本文学全集08 日本霊異記、今昔物語、宇治拾遺物語、発心集』

ポスト・ブック・レビュー【この人に訊け!】

鴻巣友季子【翻訳家】

日本文学全集08

日本霊異記、今昔物語、

宇治拾遺物語、発心集

日本文学全集

伊藤比呂美、福永武彦、町田康 訳

河出書房新社  2900円+税

装丁/佐々木 暁

 

原作と絶妙な関係をもって繰り広げることばのバトル

 

平安・鎌倉時代の仏教説話集というと説教じみたものを想像するが、むしろ逆。とびきり自由で突拍子もない“前衛文学”である。現代語訳を手がけた訳者たちがまた、原作と絶妙な関係をもち、ことばのバトルを繰り広げる。

「宇治拾遺物語」の町田康訳は翻訳史をゆるがす衝撃作。町田の創意創作は織り込まれているだろう。目が二十四個ある鬼に「おまえは二十四の瞳か」と、訳者がやむにやまれぬツッコミを入れたりする。米国作家リチャード・パワーズ曰く、翻訳とは「シェークスピアをバントゥー語に持ち込むことが肝要なのではない。バントゥー語をシェークスピアに持ち込むことなのだ」。これは相手側の言語に合わせる翻訳法で現代ではわりと優勢の考え。しかし町田訳は逆で、町田康の世界に「宇治拾遺物語」を持ち込み、もつれ込み、くんずほぐれつして性交、いや成功した稀有な例といえるだろう。

「こぶとり爺さん」の原話が抜群だ。なぜ一人目の爺さんは鬼たちが「ブラボウ」を叫ぶ神ダンスを見せて瘤取りに成功したのに、二人目の爺さんは「ぜんぜん、駄目じゃん」とリーダーを白けさせ、瘤を増やしてしまったのか。原著者は「むやみに他人を羨むな」という教訓に落としているが、アーチスト町田康はここに「表現のモチベーションとその真偽」の問題を挿入した。一人目には、死んでも踊りたいという真の衝動とソウルがあった。だが、二人目には瘤取りの下心が先にあるので、「独善的」で「盛り上がりに欠けた」踊りになったのだ。この説話は、外見の醜さゆえに心を閉ざしていた人間が音楽によって自己を解き放ち再生する「ポップでフリーな」ドラマとしても甦った。

全集月報で朝吹真理子はいみじくも、町田の現代語訳の方を「宇治拾遺物語」の編纂者が先に読んだように思えた、と書いている。これを「先取りの剽窃現象」というが、要するに、千年も後の町田康翻訳の方がオリジナルに見えてしまうほどの入魂訳だ。

翻訳の可能性は果てしない。

(週刊ポスト2015年10/30号より)

初出:P+D MAGAZINE(2015/12/26)

『マルクス ある十九世紀人の生涯』上・下
『はなちゃん12歳の台所』