今月のイチオシ本【歴史・時代小説】

『ヘーゼルの密書』
上田早夕里

ヘーゼルの密書

光文社

 実在した上海自然科学研究所の研究者が、戦時下の上海で細菌兵器の謎を追う『破滅の王』が直木賞候補になった上田早夕里の新作は、やはり戦前の上海を舞台に日中戦争の和平交渉を描いている。

 一九三九年、今井武夫陸軍大佐らが中心となり、蒋介石と和平交渉をする「桐工作」が進められた。当時の中国は親日派の汪兆銘と対日強硬派の蒋介石が争い、日本軍も和平推進派と反対派が対立していた。こうした複雑に入り組む史実と矛盾することなく、著者は「桐工作」を支援する「榛」(英語ではヘーゼル)なるミッションがあったとのフィクションを織り込んでいくので、虚実の皮膜を操る手腕に圧倒されるのではないだろうか。

 貿易商の夫を持ち語学が堪能なスミ、上海自然科学研究所の研究員・森塚、研究所の料理人で武術の腕も確かな周治、周治の幼馴染みで通信社記者の双見ら「榛」のメンバーは、北京日本大使館の黒月の指示で動き出す。上海では汪派と蒋派の武装組織が血で血を洗う抗争を続け、日本人自警団も在留邦人保護を名目に過激な暴力に走っていた。日中の関係者の間を行き来するため、どちらの側からもスパイと見なされる危険があるスミたちが、困難な任務に挑むスリリングな展開には引き込まれてしまうはずだ。

 日中両国で暮らした経験を活かし両国を繋ぎたいと考えるスミ、料理の修業で中国人と親しくなった周治、ジャーナリストとして平和を追求する双見は、高い理想を抱いて和平工作を手伝っていた。しかし、日本人が暴力を振るわれているのを見たり、愛国心を煽る言葉を掛けられたりして信念が揺らぐ者も出てくる。

 スミたちが置かれているのは、日中だけでなく日韓も、歴史認識や領土問題などで対立を深め、それを各国の一部の人間が〝戦争も辞さない〟といった過激な言葉で焚きつけている現状を想起させる。

 それだけに、国情も国民性も違う日中両国が互いに納得できる落とし所を探るスミたちの静かな戦いは、小さな個人であっても、国と国との相互不信を乗り越え友好関係にするサポートはできるという事実に、気付かせてくれるのである。

(文/末國善己)
〈「STORY BOX」2021年3月号掲載〉

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