【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の35回目。中国大陸介入の推進者「田中義一」について解説します。

第35回

第26代内閣総理大臣
田中義一たなかぎいち
1864年(元治1)~1929年(昭和4)

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Data 田中義一

生没年月日 1864年(元治1)6月22日~1929年(昭和4)9月29日
総理任期  1927年(昭和2)4月20日~1929年(昭和4)7月2日
通算日数  805日
出生地     山口県はぎ呉服ごふく町城東中区(旧長門ながと国萩城下片河かたかわ町)
出身校     陸軍大学校
歴任大臣    陸軍大臣、外務大臣(兼任)など
墓  所       東京都府中市の多磨たま霊園

田中義一はどんな政治家か

中国大陸介入の推進者

飾らない人柄ひとがらで人気を集め、「おらが大将」と親しまれた田中義一は、日本の生きる道を中国大陸に求め、山東さんとう出兵などによって中国における日本の権益拡張をし進めました。国内に向けても、治安維持法を強化して反政府勢力の弾圧を行ない、欧米諸国に対抗するため軍事に力を注ぎましたが、軍部の急進派は田中の意を超えて暴走しました。

田中義一 その人物像と業績

長州閥を統率し、中国大陸へ積極的に介入

山縣有朋やまがたありともを後ろだてに、参謀さんぼうとして活躍後、総理となって大陸介入を推進する。
だが、その田中を無視して軍部が暴走を始める。

山東さんとう出兵で積極路線にかじを切る

「山東半島に住む日本人の生命と財産が危機にひんしています。これを守るために、日本は出兵せざるをえません」
1927年(昭和2)5月、総理に就任したばかりの田中義一はイギリス、アメリカ、フランス、イタリアの代表を外務省に招き、こう述べた。
日本は中国東北部(満州まんしゅう)を支配する張作霖ちょうさくりんを支援していたが、張作霖軍は蔣介石しょうかいせきひきいる国民革命軍(北伐ほくばつ軍)に各地で敗れ、日本人約2万人が居住する山東半島が戦場となる可能性が高まったため、出兵に欧米の理解を求めたのだった。
しかし、その裏には、満州における日本の権益けんえきを守り、さらにそれを拡張していこうという意図があった。各国からは異論がなく、日本は山東出兵に踏みきった。そして、直後に開かれた東方とうほう会議で、大陸への強硬きょうこう路線が明確に示されたのだ。
「日本の自衛と権益の擁護ようごをまっとうするため、対中国外交の刷新を期さねばならない」という田中のかねてからの主張が、いよいよ自身の内閣で実行に移されることとなった。
これ以後、第2次・第3次の山東出兵から、やがて満州事変へと連なる、戦争への道を日本は歩んでいくのである。

●ロシア社会にとけこみ内情を探る

田中義一は、1864年(元治1)6月22日、長州藩下級藩士の田中信祐のぶすけ美世みよの3男としてはぎ城下(現山口県萩市)に生まれた。
腕白わんぱくな少年時代を過ごした義一は、小学校の教員などをつとめたのち、陸軍教導団をへて19歳で陸軍士官学校に入学を果たした。
任官したのち陸軍大学校にも学び、卒業後日清にっしん戦争に従軍する。そこで武勲ぶくんを重ね、さらに従軍の際に作成した第1師団動員計画が高く評価されて、田中は軍の中枢ちゅうすう機関で活躍することとなった。
対露開戦の可能性が高まると、1898年(明治31)、田中は抜擢ばってきされてロシア留学を命じられ、首都サンクトペテルブルグに着任した。
田中はロシアの内情を探ろうと意気ごみ、ロシア社会に溶けこむ努力を惜しまなかった。「ギイチ・ノブスケビッチ・タナカ」とロシア風の名を名のり、ロシアの国教であるロシア正教に入信までした。社交ダンスの習得に励み、貴族社会での交友も広げた。
帰国した田中は陸軍で有数のロシア通となり、ロシアとの開戦の是非を問われると、ロシア軍の享楽的体質や組織上の問題点を挙げ、「開戦で勝利の見込みあり」と進言した。

●山縣と「帝国国防方針」を策定

日露にちろ戦争後の1906年(明治39)、田中は国防の基本戦略を説く意見書「随感雑録ずいかんざつろく」を執筆した。これが山縣有朋に高く評価され、「帝国国防方針」の起草を任されることとなる。
1907年(明治40)、田中の原案をもとに策定された「帝国国防方針」は、列強に対抗するための軍事国家建設への道筋をつけるものとなった。
郷里長州の先輩でもあった山縣は、田中の人物と能力を高く買った。田中も山縣を深く尊敬し、国の将来などを語り合った。
この年の5月、田中は第1師団歩兵第3連隊長に就任する。参謀経験者が連隊長となるのは異例だったが、たたきこみ教育に疑問を抱き、人間同士の融和が教育に必要と考えた田中が、その実践のため自ら願いでた人事だった。田中の試みは成果を上げ、以後、参謀への昇進には現場経験が不可欠となった。
その後、軍事課長に昇進した田中は、帝国在郷ざいごう軍人会や青年団を組織し、軍による国家の統制、国民の教化にも力を注ぐ。軍務局長になると、日露戦争後の版図はんと(勢力範囲)拡大で不可欠となっていた師団増設に取り組んだ。
1917年(大正6)ロシア革命が起きると、参謀次長となっていた田中はシベリア地域の支配を計画し、翌年政府は、アメリカからの要求に応じる形でシベリア出兵に踏みきった。
しかし、徐々に旗色が悪くなり各国は撤退に動く。ところが日本は東部シベリアの支配をもくろみ、出兵を継続した。すると、1920年(大正9)アムール川河口のニコラエフスクを占領中の日本軍と邦人が、パルチザン(遊撃隊)に虐殺される尼港にこう事件が起こった。
田中は原敬はらたかし内閣で陸軍大臣に就任していたが、この問題で責任を追及される。心労が重なった田中は健康を害し、大臣を辞職した。

●4年で幕を閉じた政治家人生

1925年(大正14)、立憲政友会の次期総裁候補として、田中に白羽の矢がたった。
「私の理想を実行するのは政治の仕事である。しかし、立憲政治の世では政党を離れて政治はできない」とかねてから語っていた田中は、要請を受諾し、退役して政友会第5代総裁に就任した。
政友会は田中の資金調達力に期待したが、入党にあたって田中が用意した持参金は、陸軍の機密費を横領したものではないかとの疑惑が浮上した。だが、やがて疑惑の追及はやみ、田中は自らの人脈を次々と党に引き入れて、政友会を巧みにまとめていった。
1927年4月、金融恐慌きょうこうの対応に失敗した若槻わかつき内閣が総辞職すると、田中に組閣の大命が下った。総理となった田中は、恐慌の収束に力を注ぐとともに、山東出兵に始まる対中積極外交を展開し、大陸での勢力維持をはかっていく。
ところが翌年6月、田中が敷いた路線を脱線する形で、関東軍による張作霖爆殺事件が起こった。首謀者の処分をめぐって田中は天皇から叱責しっせきを受け、1929年(昭和4)7月、内閣は総辞職へと追いこまれた。
天皇に深い敬慕の念を抱いていただけに、その怒りが身にこたえたのか、田中は、政界に転身してわずか4年後の同年9月29日、狭心症の発作を起こし、65年の生涯を閉じた。

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総理決定の日、羽織袴はおりはかま姿の田中。1927年(昭和2)4月19日。写真/毎日新聞社

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東方会議を主催する田中総理
1927年(昭和2)6月27日から7月7日まで、田中義一総理兼外相(右から3人め)と森恪もりつとむ外務政務次官によって、対中国政策を討議する東方会議が開かれた。会議の最終日に、蔣介石の国民革命軍による北伐ほくばつへの対応と、満蒙まんもうにおける日本の権益を守るという内容の「対支政策要綱」が発表され、強硬路線が明確化された。会議には奉天総領事だった吉田茂よしだしげるも出席し、強硬論を主張した。1927年7月7日撮影。写真/毎日新聞社

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シルクハットの礼装姿で参内する田中総理
田中は昭和天皇に張作霖爆殺事件の報告をし、天皇から厳しい叱責を受けた。軍部の暴走は田中といえども、もはや止めることのできない状況になっていた。1929年7月撮影。写真/毎日新聞社

(「池上彰と学ぶ日本の総理23」より)

初出:P+D MAGAZINE(2018/03/30)

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