◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第2話 Treasure hunting〈前編〉
「別れたって嘘じゃない。まだ切れてないんじゃない。冗談じゃないわよっ!」
顔を歪めて泣きながら怒鳴っている。
「だから、話を聞いて」
「馬鹿にしないでよっ!」
追いかけるように出て来たポロシャツ男の声を女性が遮った。
「今まで、何人と浮気した? バレる度にもうしないって。馬鹿の一つ覚えみたいに謝って。あたしは我慢してきた。こうちゃんのことが好きだから。ずっと我慢してきた。結婚したらさすがに変わるだろうって思ってた。なのに」
「いや、本当に別れてるんだよ。でも職場の後輩だからさ、全く連絡を取らないわけにはいかなくて」
「職場の後輩が、新婚旅行の最中だって分かってるのに、エロいLINE送ってくんの? 裸の胸に当ててたの、あれ、あんたのキャップじゃない。それもあたしが買ってあげた」
爆弾発言が炸裂した。おそらくその場にいる旅客、公務員、空港職員すべての視線が集中しているだろう。
距離は少しあるがポロシャツ男の顔面が蒼白になったのは見て取れる。
「何が、早く帰って来て、会いたいよぅ、よ。馬鹿にするのもいい加減にしてよっ!」
「お前、俺のスマホ見たのか?」
「ええ、見たわよ」
「それはプライバシーの侵害だろうが」
「そうね、だったらどうぞお一人でプライバシーを大事にすれば? もうあたしのマンションに帰って来ないで。こんなもの」
言いながら女性はまた指輪を外す。
「いらないわよ。あの女にあげたら?」
捨て台詞とともに男に投げつけた。二つの指輪は胸に当たって弾み、そのまま縦に床の上に落ち、車輪のようにコロコロと転がっていく。男は転がる指輪の行方と、立ち去る女性の双方に目を向けて、その場に立ち尽くしていた。検査室から桜田が出て来た。指輪を投げたところは見えていなかったのか、男を無視して八番ブースに向かう。続いて出て来た機動班員もまたしかりだ。勢いを失った指輪が倒れて止まった。見失いはしないだろうが、男からの距離はある。
どうしたものかと思うが、手伝いたいとも思えない。やはり無言だった英が口を開いた。
「北京便が到着しましたね」
男に目もくれずに英が言う。税関エリアには新たな旅客が入り始めていた。
「手伝わなくていいんですか?」
「必要あります?」
表情は今までと変わらず柔和なだけに言葉に冷たさを感じた。槌田の中で、英に対する印象が少し変わる。
ちらりと見ると、ポロシャツ男が腰を屈めて指輪を拾い上げていた。立ち上がると肩を落とし猫背になり、そのまま男は人目を避けるように足早に外へと出て行った。
「こういうのも、よくあるんですか?」
「頻繁にではないですが。今回は日本人だったのでまだ簡単でした。文化と言葉の異なる外国の方のもめ事の場合は、なかなか厄介です」
さもあらんと槌田は思う。
入国審査を終えた旅客がぞくぞくとベルトコンベアーの前に集結し始める。立ち止まらずにまっすぐ税関エリアに来る者もいる。その多くが背広姿だ。出張のビジネスマンだろう。慣れた手つきで手荷物を検査台の上に載せ、短時間で検査を終えて自動ドアから出て行く。対してベルトコンベアーの前でスーツケースを待っている人たちは軽装だ。聞こえてくる言葉からするとほとんどが中国人らしい。がたんとベルトコンベアーが鳴った。北京便の預け入れ荷物が出て来るのだ。
目の前にスーツケースが来るまで待っていてもよいのに、せっかちな人たちはスーツケースまで近づいて我先にとコンベアーから下ろす。これは国民性ではなく、万国共通だなと槌田は胸の中で独りごちる。スーツケースを手にした旅客が次々に税関ブースへと向かう。全員が迷うことなく〝申告なし〟に近づいて来る。
大量の荷物、持ち運びの仕方。学んだことに留意しながら槌田は旅客に目を向ける。今のところ怪しい者はいない。ベルトコンベアーに流れてくるのも、ごく普通のスーツケースばかりで巨大な段ボール箱等もない。これが通常であり望ましいことなのだが、どこか拍子抜けしてしまう。その視界の低い位置に胴体に水色の布を巻いたビーグル犬が入ってきた。さきほど鈴木たちが話していた検疫探知犬だ。赤いキャップと同色で背中に農林水産省と金色の文字が入っている半袖シャツを着たハンドラーとともに税関エリアで違法に持ち込まれたものがないかを捜している。
「ニールですね」
視線に気づいた英が出したのは、さきほど鈴木たちが話題にしていた犬の名前だ。ハンドラーの男性職員の誘導で、ニールはカートに積まれた旅客の荷物を次々に嗅いでいく。荷物の前で座れば禁止物があることになる。ただ今のところはないらしい。
「すでに肉類だけで十キロ以上没収しているそうですよ」
さらりと英に言われて、へぇと受け流しかけた。だがすぐさま「今日の話ですか?」と訊ねる。
「ええ。果物や野菜と米などでも二十キロ。そのほとんどは大連便の中国人五人家族が持ってきたそうです」
「それって、どう考えても確信犯だよな?」
「まぁ、そうなりますよね」と、同意して英は更に続ける。
「食べ物の持ち込みは、国内にその国の人がどれだけいるかに比例しているというのが私の説なんですよ」
旅行客が滞在中に食べるために食べ慣れたものを持ち込むケースは多い。だとしても個人で食べきれる量になる。それを遥かに超えた量となると、本人以外の誰かに分ける前提だろう。求めよさらば与えられん、ではないが、欲する者がいるから与える者がいる。
需要と供給が成り立つからかと言おうと口を開こうとしたそのとき、ニールが走り出した。引き綱とハンドラーの腕がぴんと伸びる。
「ニール」と名を呼びながら、それでもハンドラーはニールに任せて付いていく。ニールが向かった先にはボストンバッグを肩に掛けた女性が一人いた。