◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第3話 Good boy! Good girl!〈前編〉
第3話 Good boy! Good girl!
東京メトロ南砂町(みなみすなまち)駅三番出口から地上に出る。むわっとした熱気に全身を覆われて、思わず槌田(つちだ)は顔を顰めた。七月はおおよそ暑い。だが今年の暑さは例年以上だ。まだ朝の八時半過ぎだというのに、おそらく三十度になっているだろう。
駅から目的地の東京税関東京外郵出張所までは徒歩で十二分とされている。道順はシンプルだ。永代通り沿いに進んでイオン南砂町SUNAMO店を越して右折。距離にしたら一キロ程度だろう。三十九歳、身長百七十八センチの健康体の自分の足ならば、信号に引っかからなければ十分は掛からないはずだ。
歩き出して一分足らずで顔に汗が浮いてきた。この近辺は以前は工場が多かったが、平成に入って地方移転が進み、空いた土地は再開発され大規模なマンションや病院や商業施設が建てられた。広い道路の両側に、シンプルな長方体のビルが建ち並んでいる状態だ。時刻によっては日陰も出来るのだろうが、太陽が昇れば昇るほど日陰はなくなる。現に今も、強い日差しが槌田の首筋や顔に照りつけて、じりじりと焦がされていく。
交差点を右折する。進行方向の先に巨大な郵便局のマークの書かれたビルが見えた。東京国際郵便局だ。東京外郵出張所はこのビル内に併設されている。
あと少しだと思ってからが結構遠い。ようやく敷地入り口に着いたときには、顔も背中もすでに汗でぐっしょり濡れていた。説明された通りに郵便局の入り口を通り過ぎる。さらに進み、東京税関東京外郵出張所の表示を見つけて安堵した。英(はなぶさ)との待ち合わせ時間までにはまだ数分あるので、建物の中で汗を引かせることにする。建物内に入ったとたん、冷房で冷やされた空気が身を包んだ。呼吸が楽になったようにすら思える。入り口の警備員に挨拶して、研修に訪れた本関の者だと告げる。見回すが英の姿はない。話が通っていたのだろう、エントランスにあるソファで待つように言われた。腰を下ろし、ハンカチで顔の汗を拭って一息吐いて、入り口を見つめる。
どうしたものだろうか? と、槌田は悩む。
空港研修の休憩時、旅具通関部門第一班の鈴木(すずき)、桜田(さくらだ)、森本(もりもと)の三名と雑談をした。夕食が牛丼の大盛りのみなのを指摘され、英の不注意でこうなったと答えた。何につけても如才のない英のうっかりミスだ。皆の笑いを誘うかと思いきや、そうはならなかった。英のあだ名の話題のあとに、「今日だもの」と鈴木が呟いた。桜田と森本の二人は気まずそうに口を噤んで、話はそれきりになった。その後、英と二人になったときに本関の女性職員たちが飲み会に誘いたいと言っていることを聞き、後先を考えた槌田は離婚していることを明かした。「まだそういう気持ちにはなれなくて」と言った槌田に英は「分かります」と呟いた。さらに、「良かれと思って、前に進めと言う人もいますが、そう簡単に思いは変えられないですよね」ともだ。
それで英も離婚経験者だと槌田は確信した。一昨日は英にとって、何かしらの思い出の日なのだろうということも。だがそれが間違いだと、昨日知った。
二十四時間の研修を終えて帰宅する電車内で、槌田は何の気なしにスマートフォンでニュースを眺めていた。一通り読み終えて、画面を閉じようとしたときに、ある記事に目が留まった。指でタップして全文を出す。今年に入って違法薬物所持と使用で芸能人が逮捕されたことから書き出して、全国の税関で摘発した違法薬物の量の推移についてまとめたものだ。今、まさに自分の職務なだけに、集中して読み進める。記事の後半に、違法薬物使用者が起こした事件の被害者の遺族の写真とコメントが載っていた。
十四年前に神奈川県横浜市で起こった、違法薬物の使用者が起こした交通事故で二十六歳の女性が亡くなった。被害者の母親は、事件の痛ましさを語り、二度とこのようなことが起こらないように望んでいた。その言葉が、警察官であり今は税関職員でもある槌田の胸に突き刺さる。やりきれない思いで記事内の女性の写真を見つめる。
悲嘆にくれる日々を過ごしたのだろう、記事に記載されている実年齢よりも、母親はかなり年老いて見えた。自宅で撮影したらしく、背景の戸棚の上には写真立てが並べられていて、その横の花瓶には綺麗な花が生けられている。こうして日々、娘を偲んでいるのだろう。
槌田自身も親になった今、我が子を先に亡くす可能性はある。病気や不慮の事故だとしても耐えがたいだろう。ましてこんな犯罪者に愛する娘を奪われたとなったら。
頭の中に結実(ゆみ)の笑顔が浮かんだ。胸が苦しくなって、記事を閉じようとする。だがタップする直前で槌田はあることに気づいて写真を指で広げる。背後の写真立てだ。成人式の着物姿での娘の写真の横に、男性とのツーショットのものがある。小さいし、ピントも合っていない。それに十四年以上前のものだ。だが、笑顔で写っている男性は、槌田には英に見えた。
画面を閉じた槌田は、事件について検索をした。事件当時の記事は、ネット上ではリンク切れになっていて読めなくなっているものも多い。だが追跡記事のいくつかは読むことが出来た。今回と同じく被害者の母親のコメントがないか探す。そして見つけた。
娘は旅行代理店勤務で、同期の男性と二カ月後の九月に結婚する予定だった──。
そこに書かれていた会社名は、英の以前の勤務先と同一だった。娘の享年から、同期の男性の現在の年齢は三十九歳または四十歳。そして事件が起こったのは十四年前の一昨日だ。
被害者の婚約者が英なのかは、現時点では確定ではない。だが槌田の刑事の勘は、そうだと言っていた。
本人が言わない限り、話題にすべきではない。それは分かっている。だが、気づいてしまった今、何もなかったかのように接することが出来るだろうか。
考えていることを隠しきれていないときがある、槌田はそう何度も指摘されてきた。妻子からだけでなく職場でもだ。ことに本庁への異動前に在籍した新宿署では先輩たちに、二度の被弾のみならず発砲もしたことで著名になった同署内の留置管理課の先輩警官を見習えとからかわれ続けた。なにより英は賢い。異変を察したら、理由を訊ねてくるに違いない。
──そのときはそのときだ。なるようになれ、だ。
まずは仕事だと、槌田は気持ちを切り替える。一昨日の羽田税関支署に続き、今日は東京外郵出張所の研修が行われる。汗が引くのを待ちながら、座学で学んだ内容を思い出す。
海外から国内に届く郵便物の八割は神奈川県内の川崎東郵便局に届く。管轄しているのは横浜税関で、東京都と同じく局内に税関の出張所が併設され、百人体制で通関業務を行っている。
東京国際郵便局は残りの二割の国際郵便のうちのEMSを取り扱っている。世界百二十以上の国や地域に三十キログラムまでの書類や荷物を最速で郵送するサービスだ。最速のサービスを適えるために、国際普通郵便や国際書留郵便などとは異なり、平日だけでなく土・日・祝日も東京税関東京外郵出張所は通関手続きを行う。業務内容は羽田支署の旅具通関部門と変わらない。輸入される物に対して正しく税金を徴収し、違法な物は国内に入れず、円滑に早く通関させる──。