◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第4話 Bon voyage〈前編〉
第4話 Bon voyage
九月三十日午前五時半、日の出とほぼ同時刻に槌田(つちだ)は晴海客船ターミナルビル二階にある乗降客コンコース前に立ち、目の前に停泊する巨大なクルーズ船セブンシーズ・ゴールデンパールを見つめている。
槌田は東京税関調査部に七月六日付けで出向した。座学と実地での二週間の研修を終えて、第7部門統括審理官として常勤に就いていた。統括審理官は税関で摘発された麻薬や覚醒剤をはじめとする不正薬物やコピー商品等の密輸事件、脱税など関税法にふれる事件の犯則調査を担っている。
通関業務の最前線となる国際空港や港は二十四時間体制で税関検査をしているため、審理官も現地に在籍して対応している。だが晴海客船ターミナルの国際船の入港は一度もない月すらある。だから税関職員は常駐はせず、国際船が入港するときだけ監視部監視取締部門職員と調査部統括審理官が赴いて対処している。
槌田が在籍してから国際船が入港するのは今回で五回目になる。それまでの四回は槌田の勤務シフトには当たらなかった。だから今回が統括審理官として初めて国際船を担当する機会になる。
セブンシーズ・ゴールデンパールはイタリア船籍で全長二百二十メートル、五十七万トン超えの十四階建、乗客定員は千八百名、日本でのクルーズは二〇一二年から開始していたが、昨年二〇一七年の十月から東京港に入港し始め、その年だけで十回のクルーズを実施した。今年に入ってさらに数は増え、今日は十五回目の入港となる──。
事前に学んだ情報を頭の中で再確認していると、人の動く気配を感じた。出入国審査スペースに集結していた監視部監視取締部門の監視取締官たちが、こちらに近づいて来る。今からクルーズ船に乗船して入港尋問を開始するのだ。
「行きましょうか」
英(はなぶさ)の声に槌田は振り返る。近づいて来た英の顔には緊張は感じられない。
「乗船しての取調は、よくある事例ではないって言ってたよな?」
念のために確認する。
「ええ。少なくとも私は初めてです」
即答された。声も普通だ。
勤務中、英の表情はいつも穏やかだ。羽田国際空港や東京外郵での研修時に、脱税や密輸犯を前にしたが、そのときも表情はさして変わらなかった。唯一の例外は、東京外郵で大麻の実を摘発したときだ。あのときだけはそれまでにはない鋭い目つきをしていた。だが大麻の実が加熱されたものだと分かって、すぐさま元通りに戻った。研修が終わり、審理官の勤務に就いてすでに二ヶ月半になる。その間にコピー商品の摘発案件を担当したが、事後調査の書類仕事だったこともあり、あのときのような英の険しい表情を見ることはなかった。
──不正薬物だけか。
ネットの記事を槌田が見つけたのは偶然だった。記事の写真に写っていたのが英だという確証はない。内容が内容だけに、槌田の方から話を切り出すことは未だに出来ていない。
今回も確かに不正薬物事案ではない。とはいえ、これから英も初めての摘発事案に当たるというのに、ここまで平静でいられるのはさすがに薄気味悪い。
発端は二日前の午後三時、長崎県佐世保港から和歌山県新宮港へのクルーズ中のセブンシーズ・ゴールデンパールの日本人スタッフ・磯谷千香(いそがいちか)から、本関の監視部監視取締部門に入った一報だ。韓国の釜山(プサン)港に入港した際、観光に出掛けた旅客の一人が関税法違反のトラブルに巻き込まれた可能性があるというものだった。旅客の税関検査は監視部監視取締部門が担当するが、関税法違反と確定した場合、その先の取調は槌田たちの所属する調査部の仕事になるので、その情報は速やかに伝達された。そして当番に当たった槌田と英が今、対処に当たろうとしている状態だ。
今回、旅客が巻き込まれたトラブルは不正薬物や武器などの輸入禁止物の密輸ではなく、脱税にあたる。適正な税金を支払いさえすれば、国内に持ち込むことには何も支障はない。羽田空港では一日に何例も起きている事案だ。
そう考えれば以前に旅具検査官をしていた英にとって、緊張する必要などどこにもない。
だが今回は事情が違う。磯谷から、厚意から騙されてしまった旅客をなんとか助けて貰えないだろうかと相談を持ちかけられたのだ。
「出国地の税関や航空会社や船舶会社のスタッフから、旅客の様子が怪しいと教えて貰うことはわりとありますが、今回のようなケースは私は初めてです」
槌田の返事がないことを気にしてか、英が丁寧に言い直してきた。
出向して以来、仕事をともにしてきて、英が実はかなりの強心臓なのはすでに知っていた。だが今回ばかりはさすがに昂揚するだろうと思っていただけに、思わず「そのわりには落ち着いてないか?」と訊ねる。
英が答え出そうとしたそのとき、今日の旅客検査を取りまとめる寺内(てらうち)監視部統括監視官の声が聞こえる。
「今から乗船して入港尋問を開始する。各自、十分に注意するように。なお今回は、英と槌田の二名の統括審理官も同行する。それでは、よろしくお願いします」
その場にいる監視取締官と槌田と英の二人も「よろしくお願いします」と返した。
「すでに打ち合わせ済みだが、今回は特例なので、もう一度確認しておく」
断りを入れてから友保(ともやす)班長が話を続ける。
「旅客検査の開始予定時刻は午前七時半。相談案件の当該旅客の検査は最終グループに回す。検査中に機動班をメイン・ラウンジとエントランスに配置する」
通常、機動班を含む税関職員は出入国エリア内にいる。違反者の入国を阻むのが職務だからだ。
「検査終了後、福地(ふくち)、水上(みなかみ)、細野(ほその)、枝園(えだぞの)、富津(ふっつ)の五名は機動班に合流」
友保班長に呼ばれた五名が「はい」と返事する。
「この事案も含めて、改めて各自見逃しのないよう、十分に注意を払って検査に臨むように」
監視取締官全員が「はい」と応えた。
「当該旅客の検査終了後は」
「ここからは私が」
友保が言い終える前に英が話し出す。
「受取人は当該旅客の到着時に出迎えることになっています。私が旅客を装いエントランスへ同行します。槌田は機動班と同じく、メイン・ラウンジとエントランス付近で待機します」
この役割は一瞬で決まった。槌田の見た目は、一目で司法職員だと気づかれるような険しさはない。だが柔和さで言えば英とは比べるべくもない。加えて容疑者の身柄の拘束に関しては、槌田の方が圧倒的に経験値が高いので、その観点からも当然のことだ。
「受取人の身柄確保後は、速やかにCIQエリアの取調室に連行します。以上、よろしくお願いします」
言い終えると英が深く頭を下げた。まだ人気(ひとけ)のないターミナルに「よろしくお願いします」と監視取締官全員の声が響いた。