◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第3話 Good boy! Good girl!〈後編〉
「おやおや、これは。横川(よこかわ)さん、お見事です」
ビニールシートから取り出した腕時計を一目見るなり泉水(せんすい)が言った。
「やったー!」
横川が両手を天に突き上げて叫ぶ。
泉水が腕時計を見た時間はものの数秒だ。それで贋物だと分かるのならば、自分でも分かるくらい雑な作りなのだろうと槌田(つちだ)は思う。だが梱包を解かれて作業台の上に並べられた五つの腕時計は一見する限り、おかしな部分は何一つない。
「いいですか?」と許可を得て、手袋をはめて一つを手に取る。金属自体が贋物だと思えるほど軽くはない。目の前まで持ってきて注視する。ステンレスのベルトには塗装の剥げもない。文字盤も数字のゆがみもないように見える。
「見た目も重さも本物に限りなく近い」
泉水がデジタルスケールに腕時計を載せたのと、英(はなぶさ)がさきほどのとは別な青いファイルを机の上に置いたのはほぼ同時だった。上品な仕草で英に会釈をすると、泉水は慣れた手つきでファイルをめくる。
「スピードマスタープロフェッショナルの3570.50。人気モデルです」
差し出されたファイルに書かれていた重量は134グラム。デジタルスケールには132グラムと表示されている。腕時計の重量などそもそも知らない。知っていたとしても2グラムの違いに気づけるとも思えない。ならば泉水と横川はどこで贋物だと見破ったのだろうか?
「どこで気づきました?」
槌田が口を開く前に英が横川に訊ねた。
「竜頭とタキメーターの数字がちょっとずれてるんですよ」
ファイルの写真では三つの竜頭はそれぞれ文字盤の外周に記されているタキメーターの350と300、250と225、200と180の数字の間にある。見比べると、確かにわずかではあるが、同じではない。
「よく気づきましたね」
「先生のお蔭です」
泉水のねぎらいの言葉に横川が頭を下げた。
先生という呼び名は泉水にぴったりだと槌田は思う。だがお蔭だというのは分からない。
今度こそ自分で訊ねようと口を開こうとした矢先、横川が話し始める。
「弟が勤め先の店長からお下がりでこれの別モデルを貰って」
茨城県出身の横川が今年のゴールデンウィーク明けに帰省した際、地元で美容師をしている弟から、勤め先の店長にブランド品の腕時計をお下がりで貰ったと自慢された。上司との良い関係に姉としては素直に喜んだ。だが実物を見て嬉しい気持ちはかき消えてしまった。贋物に見えたからだ。すぐさま「これ贋物じゃない?」とはさすがに言えなかった。店長が贋物だと知ったうえで使っていて、それを譲った可能性もあるからだ。だが弟が「ブランド品の高い腕時計を貰った」と、何度も嬉しそうに言うのを聞いているうちに、耐えられなくなった。
疑惑を口にした結果、上司を信じる弟と大げんかに発展した。横川は姉として、税関職員として、弟には正規品を持っていて欲しいと思って言っただけだ。だが「姉ちゃんが高価なプレゼントを貰えない僻みだ。仕事で見ているといっても、全部分かるはずがない」とまで言われては、真偽を明らかにするしかない。すぐさま地元にある全国チェーンの質屋に行き、鑑定をして貰った。結果は、横川の見立て通り贋物だと判明した。
弟は落胆しきっていた。上司が自分に贋物を本物のように言って恩を売ろうとしたのだと思い込んでしまったからだ。あこがれていた上司像が消え失せてしまい、すっかり覇気を失った弟をなんとか元気づけなくてはと、横川は焦った。そして、そもそも上司自身が贋物だと気づいていない可能性を考え、勇気を振り絞って直接確認に出向いた。
結果から言うと、店長は本物だと思っていた。ただ、使用していたお下がりではなく、新人の定着率が悪いなか、頑張っている横川の弟がこれからも働き続けてくれることを願って、最初からプレゼントとして渡すつもりで、ネット販売の中古品を本物だと信じて購入した物だった。
決して安くはない金額で贋物をつかまされたと知った店長は憤った。だが気づけずにそれを贈ってしまったことに肩を落とした。申し訳ないことをしたと身を小さくして謝る店長の姿を前にした横川の体内ではふつふつと怒りが湧き上がっていた。
店長が悪いのではない。悪いのは贋物を売った奴だ。その怒りが収まらないままに出勤した横川は、泉水の元に走り、腕時計の贋物の見分け方を教えて欲しいと懇願した。泉水は時間の許す限りファイルを元に、各メーカーの真偽を見分けるポイントを横川に伝授した──。
その成果が今回の贋物発見に繋がったのだ。
「先生が良いと、こうも成果が出るんだなって。もー、学生時代にこういう先生に出会いたかった。そしたら、人生違ってたかも」
「教える側よりも、本人のやる気なんじゃないのかな? それに横川さんの人生が今とは違っていたら、私は横川さんとは出会えていなかったことになる」
「そっか、そうだよね。じゃあ、やる気のない過去の自分、グッジョブ! ってことだ」
諭すように言う泉水に、親指を突き出すポーズをして、朗らかに横川が笑う。
二人のやりとりは、双方気心の知れた教師と生徒そのものだと槌田は思った。
その後の手続きを手伝い終えてから、槌田と英の二人は通関部門へと戻ることにした。道すがら、槌田はずっと感じていた疑問をようやく口に出す。
「泉水さんって、何かその」
言い始めたものの、言葉に詰まってしまった。
一般的に公務員は年の若いうちは現場に、在籍年数が上がっていくと管理部門に配属される。泉水は見た目から推測するに定年間近の年齢だろう。その歳で部長でもなく、現場の最前線にいるのならば、何か理由があるに違いない。だが「何かしでかしたんですか?」と、言葉に出してはさすがに聞きづらい。
「あの場所で能力を最大限に活かしたいという本人たっての希望だと聞いています」
今回ばかりは英の察しの良さがありがたい。
「警視庁でもいますよ、そういう人」
出世よりも現場を好み、現場で定年を迎えることを望む者は警察にもいる。
「刑事さんとか、多そうですね」
「鑑識にも多いと聞いています」
なるほど、という表情で英が頷く。
「現場での経験値が高いベテランから直接指導を受けられるのは後進にとっても得ることが多いからな。それに」
続けようとして槌田は一度口を噤む。
「どうしました?」