夏川草介の新刊『始まりの木』 第1話まるごとためし読み!

 古屋は左手を伸ばして傍らの巨大なブナの木に触れた。

 見れば堂々たるブナの根回りには大きな注連縄が張られている。格別派手に飾られているわけではない。けれども大切に守られてきた木であることが、自然に千佳にも伝わってくる。

 誘われるように巨木を見上げれば、かすかに揺れる枝葉を抜けて、光の粒子が降ってくる。きらきらときらめく朝日までが澄んでいる。

「この土地には、神の姿が溢れている」

 光とともに、古屋の声が落ちてきた。

「日本人にとって、森や海は恵みの宝庫であり、生活の場そのものであった。だからこそ、それらはそのまま神の姿になったのだ。木も岩も、滝も山もことごとくが神になった。ごく当然に見えるこの事実は、しかし世界史的に見れば普遍的なものではない。むしろ西洋の神の歴史から見れば、特殊な世界観と言ってよいだろう」

 古屋の声が一層深みを帯び、朗々たる響きをまとう。ステッキに両手を置いたまま、森の空気に溶け込むように目を閉じて立っている。

「日本において森や海が世界そのものであったのに対して、西洋においてそれらは世界の境界だった。広大な原生林帯には恐るべき蛮族が跋扈し、白波の立つ大洋の向こうからはヴァイキングの群れがやってくる。安易な解釈に陥ることは避けねばならないが、彼らにとって、森や海は恐怖の対象となることがあり、忌避すべき壁にもなり、取り除くべき敵となることが多かった。だからこそ彼らは森を開き、自然を制圧する営みを積み重ねてきた。そうして、実際に森や海を制した西洋人は、自然の中に神を見るのではなく、自らの心の中に、きわめて人間的な神を作り上げることになった」

「人間的な神……」

 思わずつぶやく千佳に、古屋の声はあくまで揺るぎなく続く。

「人間の言葉を話し、人間に慈悲深い言葉を与える神の存在は、過酷な環境を生き抜く人々に大きな活力と勇気を与えた。それは確かだ。しかし一方で、神があまりに人間的であることは、西洋社会の世界観そのものを、人間中心の解釈に閉じ込める方向へいざなっていった。のちに生じた科学革命は、一神教の宗教観と対立したように見られたが、けしてそうではない。科学は人間に万能感を与え、その結果、すでに十分に根を下ろしていた人間中心の世界観を刺激して、人間至上主義へと変貌させる結果となった。自信は倨傲に変じ、謙虚は退けられ、思想や哲学の多くが人間を、すなわち自分を語ることに熱中した。人間にばかり語りかける神のもとで、西洋社会はより一層自我を肥大させることになったのだ」

 古屋の言葉のすべてが千佳に理解できるわけではない。

 けれどもなぜか、自分の許容量を大きく超えているはずの論述が、不思議なほど抵抗なく脳裏に届いてくる。

「無論、現代のこの国の人々が、西洋由来の人間中心主義に陥っていないとは言わない。謙虚に世界と向き合っているとはとても言い難いし、それどころか病的な自我の気配はあちこちに漂っている。しかし巨木を敬い、巨岩を祀り、巨山を拝して、自らを世界の一部に過ぎないと考えてきた日本人の感覚は、完全に消え去ったわけではない。今もそこかしこに確かに息づいて、人の心を支えている。だからこそ……」

 ふいに古屋が言葉を途切れさせた。

 千佳が視線を向けた先で、古屋はいつのまにか目を細めてかなたの岩木山を眺めやっている。

 表情の読めない視線のかなたに、見事な津軽富士が朝日を受けて輝いている。

「だからこそ、この国は美しいと思うのだよ」

 豊かな響きであった。

 普段の毒舌家からは想像もつかない温かな言葉であった。日本中を歩き続けてきた学者だからこそ口にできるその言葉が、すなわち特別講義の締めくくりであった。

 千佳もまた岩木山を眺めやる。

 この土地の人々が神とあがめる霊峰である。と同時に、古屋が妻とともに何度も足を運んだという山である。

 しばらく言葉はなかった。

 かすかに風が流れ、巨木の葉擦れの音が心地よく過ぎて行った。

 黙ってかなたを見つめていた千佳は、やがて心のままに口を開いていた。

「登りませんか、先生」

 ごく自然に流れ出た言葉であった。

 格別の思いをめぐらせたわけではない。ただ山を見上げるうちに、言葉の方から舞い降りてきたかのようであった。

 千佳が視線を戻せば、古屋が軽く眉を寄せて見返している。

「山の上までだって、荷物持ちくらいできますよ」

 古屋がすぐには答えなかったのは、千佳の言葉を測りかねたためかもしれない。一拍を置いてから古屋は口を開いた。

「この足で登れると思うのか?」

「先生なら大丈夫だと思います。これまでだって必要があればどんな場所にも足を運んできたんですから。だいたい足が悪いから出向かないなんて言ったら、柳田國男先生が笑うんじゃないですか?」

「口ばかり達者になっていくな」

「それともスカイラインを使って車で行きますか?」

 岩木山には八合目まで有料道路が通っている。その先にはリフトもあり、山頂までのほとんどの部分を歩かずとも辿れるようになっている。

 しかし戯れに問うてはみたものの、答えは最初から千佳にもわかっていた。そういう道具ではなく、自らの足で登ることに意味があるということは、古屋が常々千佳に言い続けてきたことなのである。

「妙な心配をするな。岩木山なら数えきれんくらいに登った。同じ場所に何度も行っている暇があったら、ほかに行かねばならないところはたくさんある」

「じゃあ、気が向いたときは声をかけてください。たとえフィールドワークじゃなくっても荷物くらいは持ちますから」

 どこまでも闊達な千佳の声に、古屋はすぐには答えず、かなたの津軽富士をもう一度眺めやる。

 わずかを置いて、

「心に留めておくとしよう」

 淡々と告げた古屋は、おもむろにステッキに引っかけてあった小さなビニール袋を持ち上げた。

 戸惑う千佳の眼前に突き出された袋の中には、金色の塊が三つばかり。

 一瞬遅れて、千佳は軽く目を見張った。

「嶽きみじゃないですか」

「真一君に頼んでもらっておいた」

 驚く千佳に、古屋の抑揚のない声が続く。

「昨日はずいぶん気に入っていただろう。とくに味の良さそうなのを選んでくれと言っておいたから、間違いはない」

「私に?」

 なお驚いている千佳の手に袋を押し付けると、古屋はくるりと身を翻した。

「寄り道に付き合わせた分の駄賃だ」

 投げ捨てるように告げて、古屋はステッキをふるいながら歩き出した。一歩ごとに大きく肩が揺れ、痩せた背中が宿の戸口へ向かっていく。

 相変わらずの冷然たる態度だが、ステッキがいつもより少し乱暴に動いているように見えたのは気のせいであろうか。

 思わず知らず千佳の口元に微笑がこぼれた途端、まるですべてを見透かしたように、古屋の厳しい声が飛んできた。

「寄り道は終わりだ。仕事に戻るぞ、藤崎」

「どこへ行くんですか?」

「三内丸山遺跡だ。朝の特急に乗る」

 古屋はふいに肩越しに振り返って告げた。

「藤崎、旅の準備をしたまえ」

 聞き慣れたいつもの声であった。

 千佳もまた、いつもの明るい声を響かせた。

「はい、先生」

 古屋が再び歩き出す。ステッキがアスファルトを打つ音が、早朝の温泉街にリズミカルにこだまする。それを追いかけるように、嶽きみをかかえた千佳が駆けだした。

 通りの下の方から車の走り出す音が聞こえてきた。

 近くの民家の窓からは、かすかにラジオの声も聞こえてくる。

『今日の青森は、快晴、無風。さわやかな秋晴れの一日となるでしょう』

 アナウンサーのよく通る声が、新たな旅の出発を後押しするように明るく響いていた。

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